「すべての人に“いい”と言われるものなんか目指してつくったら、主張のないツマラナイものにしかなりません。3割ぐらいの人に熱狂的に支持されるようなものをつくらなきゃ、世界で評価されるものなんかできない」

「人々を大いに愛して、何か新しいものを夢中になって創って、人々に楽しみ喜んでもらう、そういう生き方をしていきたいと思って生きています」と話していた。

 私は50代の後半から「MA(数学をベースにしたアート作品)展」や市民向けの講演のため、積極的に海外に進出していたので、寛斎さんの話には凄く共感し、意を強くした。

 寛斎さんの活動から、「仕事という枠の中に収まらず、世の中を明るくし、多くの人を勇気づける活動を自分もしていきたいな」と考えるようになった。人生に少しでも余裕やゆとりができたら、「多くの人のためになることや喜んでもらえることを、少しずつでも実践していかなきゃ。それが自分の幸せにもつながるのだから」と、そんな気持ちを抱きながら過ごしたのが私の60代だった。

児童養護施設の寂しげな風景で
明るい笑顔を放つ寛斎の強さ

 蛇足になるのだが、寛斎さんの“多くの人を元気にしよう”という突き抜けた明るく温かいエネルギーの源がどこから来たものなのか、会った時以来、私の謎のひとつだった。

 会った時から、10年以上も経った頃だろうか。NHKの「ファミリー・私のヒストリー」という番組で、寛斎さんの生い立ちや家族のことが紹介されているのを見た。寛斎さんと2人の弟さんたちの幼少期は、両親の離婚後、父親に振り回される寂しいものだったという。離婚直後に、それまで住んでいた横浜から父に連れられて四国に移ったが、まもなく父の育児放棄のため、3人は児童養護施設に保護されたそうだ。その時に撮られた、寂しげな風景の中のモノクロの写真が、とても印象的だった。