アルゼンチンの首都、ブエノスアイレスで「日本では公立学校に子どもを通わせている」と言うと驚かれるのが常だ。中間層以上の家庭では、公立学校への進学は選択肢にすら入らないからだ。授業は1日わずか5時間、教師は複数の学校を掛け持ち、ストライキで休校も頻発する。かつて社会の平等を支えた無償教育は、今や「死に体」と化している。連載『美しき衰退』#8では、財政難にあえぐ同国のミレイ政権によって教育予算を削られる公立学校の教育現場に突入した。30年以上教鞭を執る校長が語ったのは、日本の“今”とオーバーラップする、「助け合いの文化」が失われていくアルゼンチンの姿だった。(ノンフィクションライター 泉 秀一)
誰も「公立学校」に行きたがらない
アルゼンチンで起きている教育格差の実態
「別にそんなにひどくはないじゃないか」――。
アルゼンチンの公立校を訪れた時、それが率直な印象だった。
同国の首都、ブエノスアイレス市の南西部に位置するリニエルス地区。金融街であるプエルト・マデロの高層ビル群や、「南米のパリ」と称される瀟洒なレコレータ地区からおよそ20キロ離れた、労働者階級の家族が多く暮らすエリアだ。観光客が足を運ぶことはまずない住宅街の一角に、その公立の「セカンダリースクール」はあった。
セカンダリースクールとは日本でいえば中学と高校を合わせたような学校で、主に12~18歳が通う。
校舎は2階建てで、外壁はスカイブルーに塗られている。教室は建物の奥にあるため外からは内部の様子がうかがえないが、中に入ってみると楽しそうな生徒たちの声が響いていた。
ブエノスアイレス市南西部にあるセカンダリースクール。施設は「普通」だが… Photo by Hidekazu Izumi
教室は生徒の学習室に加えて美術室や理科室、音楽室など全部で10室。学習室では、2~3人掛けのテーブルに座って勉強する。テーブルや椅子はプラスチック製の簡易的なものではあるが、子どもが学習する環境としては決して悪くはないように思える。
案内してくれたのは、マルセラ・ブルーノ校長(56歳)。穏やかな笑顔で出迎えてくれた彼女は、アルゼンチンで30年以上教鞭を執ってきたベテランだ。廊下を歩きながら、各教室の様子を丁寧に説明してくれる。その物腰は親切で、人格者という印象を受けた。
取材前に聞いていた話とは、あまりにも違っていた。
ブエノスアイレスで「公立」の話題になると、その施設の種類を問わず現地の人々は決まって顔をしかめる。「子どもは絶対に私立の学校に通わせる」「民間の病院しか信頼できない」――。中間層以上の人々は、まるで公立学校や公立病院が、近づいてはいけない場所であるかのような口ぶりになる。
しかし、実際に自分の目で見てみなければ分からない。そう考えて足を運んだ結果が、冒頭の感想だった。少なくともパッと見で「使い物にならない」と切り捨てられるほどひどい状況には感じられなかった。
アルゼンチンは今、政治的に真っ二つに分断されている。2023年12月に就任したハビエル・ミレイ大統領は、緊縮財政を推し進める右派のリバタリアン(自由至上主義者)だ。彼はチェーンソーを振り回すパフォーマンスさながらに、国家予算のカットを強行している(本連載#04参照)。
対するのは、それまで政権を保持してきた左派勢力だ。彼らは分配政策を重視し、社会福祉の充実を掲げてきた。その象徴が、無償の公教育と公的医療制度である。
対立の根は深い。アルゼンチンでは長年、左派政権が主流派だった。特にフアン・ペロン大統領(1946~1955年、1973~1974年)が築いた「ペロニズム」と呼ばれる政治思想は、労働者の権利拡大と社会福祉の充実を柱としていた。その流れをくむ歴代政権は、公立校を大学まで授業料無料にし、公立病院も医療費を原則無料にしてきた(本連載#07参照)。
誰もが平等に教育と医療を受けられる社会は、理念としては美しいが、財源は限られる。
社会福祉を支えるために通貨を発行すれば、それだけお金の流通量が増えてインフレが進む。この構造的なインフレがアルゼンチンの長年の課題であり、ミレイはそこにメスならぬチェーンソーを入れる方針で支持を受け、大統領の座に就いた。無駄な支出を削減し、財政を立て直すという彼のスタンスは明確だった。
財源が潤沢でなければ、いくら無料といえども公的サービスの質は下がる。ミレイ政権前から質の著しい低下が指摘されていた「公立」の学校は、本当にそこまでひどいのか。財政緊縮派の政権になり、どうなるのか。自分の目で確かめて見たかったのだ。
ブルーノ校長が廊下の突き当たりで立ち止まり、学習室のドアを開けた。中では20人ほどの子どもたちが、授業を受けていた。子どもたちの表情は明るく、手を挙げて教師の質問に答える姿もあった。
「別に問題ないじゃないか」。その印象は、この時点でも揺らいでいなかった。しかし、ブルーノ校長に話を聞くと、一筋縄ではいかない公立校の課題が見えてきた。







