ブエノスアイレスには二つの顔がある。「内」では高級住宅街が欧州風の優雅さを演出し、「外」ではスラム街の貧困が現実を突きつける。この分断された社会で過半数の支持を集めた「アルゼンチンのトランプ」ミレイとは何者か。連載『美しき衰退』#4では、ロックバンドのボーカルから経済学者、そして大統領へ―幼少期の虐待体験とハイパーインフレの記憶が生んだ「代弁者」が映し出す、衰退に直面した社会の複雑な現実をつまびらかにする。(ノンフィクションライター 泉 秀一)
これが本当に同じ都市?
ブエノスアイレスの「内と外」
バスの車窓から見える風景が、劇的に変わっていく――。その光景に戸惑うことしかできなかった。
アルゼンチンの首都、ブエノスアイレスのトレンド発信地、パレルモ地区から南へ向かうバスに揺られながら、筆者は同じ都市にいることを信じられなくなっていた。わずか30分前まで、オシャレなカフェでラテを飲んでいたのに、今、目前に広がるのは全く別の世界だった。
バスがマタンサ川を渡る。水面は茶色く濁り、川岸にはゴミが積み上がっている。川を渡った瞬間、それまでの欧州風の街並みは消えうせた。低いバラックが立ち並び、ところどころにアスファルトがえぐり取られたような凸凹した道路が続く。バスを降りると、下水と腐った生ゴミが混ざったような悪臭が鼻をついた。
「同じブエノスアイレスなのに、これほど違うものなのか」
この場所に外国人、ましてやアジア人が降り立つのは、珍しいのだろう。周囲の労働者たちからの視線を感じ、自然と体が緊張感を帯びていく。マタンサ川は、ただの汚れた川ではない。ブエノスアイレスを「内」と「外」に分ける“境界線”でもあるのだ。川の「内」は州に属さない特別行政区で、「南米のパリ」と呼ばれる美しい街並みが広がる一方、「外」はブエノスアイレス州の一部で、貧困地区が点在している。

この地理的な分断は、単なる行政区分を超えて、人々の生活水準や政治的価値観にまで及んでいる。そして、それは現在のアルゼンチンの大統領、ハビエル・ミレイへの評価にも顕著に表れていた。
マタンサ川の「内」、ブエノスアイレス自治市の高級住宅街、レコレータで話した弁護士の男性は、ミレイについてこう見解を示した。
「確かに彼は過激ですが、変化が必要だったのは事実です。前政権のばらまき政策では、この国は破綻する。ミレイの政策は痛みを伴いますが、長期的には必要な改革です」
方や、マタンサ川の「外」にあるスラム街、ビジャ・フィオリトの中年女性の言葉は対照的だった。
ミレイの話題を振ると、何かを諦めたように首を左右に振った。「彼は私たちの生活を全く理解していない。彼が言う『改革』の犠牲になるのは、いつも私たちのような貧しい人間なのよ」――。
同じ都市でありながら、これほど異なる生活が存在する。それが今の、アルゼンチンの現実なのだ。