長時間労働に追われていた新聞記者の井上陽子さんは、39歳でデンマークに移住した。そこで目にしたのは、誰もが早い時間に仕事を切り上げ、自由な時間を謳歌する短時間労働社会だった。現地での取材を通じて、その働き方の合理性に納得していった井上さん。しかし、自分自身がそのスタイルに馴染むのは、決して簡単ではなかったという。それは一体、なぜなのか。話題の新刊『第3の時間──デンマークで学んだ、短く働き、人生を豊かに変える時間術』から、特別に一部を抜粋して紹介する。

「え、これで働き過ぎ?」短時間労働の国デンマーク人が考える「妥当な労働時間」とは写真:井上陽子

長時間労働を手放せない

 デンマークから日本の読者に向けて書く仕事は、過去が一本の線でつながったような、充実したものになっていった。自分とはえらく合わない場所に来てしまった、と思っていたのが、いつのまにか、それまでの経験はデンマーク社会を理解するためにあったのかと思えるようになっていた。

 連載では、今月は民主主義、来月は都市デザイン、といった具合に、毎月異なるテーマを一からリサーチしながら臨んでいた。

 ただ、チームで仕事を進めていた新聞記者時代と違って、今はたった一人である。テーマに最適な現場を選んで取材し、話を聞いて写真を撮り、メモにまとめ、その意味づけをしてくれる専門家にインタビューし、記事を書き、掲載後は報告のフォローアップ……と、やろうと思えば際限なくやることがある。

 連載以外にも、雑誌への執筆や講演など、仕事の幅はどんどん広がり、大変ありがたいのだが、これが次第に、さばききれない量に増えてきた。

 そして、実のところ、私の仕事にとって一番のハードルは、午後4時台がラッシュアワーという、この短時間労働の文化だと思えるようになってきたのである。

 日本にいた頃、午後4時といえば、ようやく仕事のエンジンがかかる時間帯だった。それで終わりって、あまりにも短すぎる。やりたい仕事が、やりたいレベルでは全く終わらない。

 その上、秋休みにクリスマス休暇、冬休みにイースター休暇と、2カ月に一度は学校が1週間かそれ以上休みになる。かつて、勤続10年で10日間の休暇をもらい、次の長期休暇は勤続20年の20日間か、なんて遠い目をしていた頃が、はるか昔のよう。まさか、「休みが多すぎる」なんていう悩みを持つ日が来るとは。

 最初の頃、私は、これを自分の知っている唯一の方法で乗り切ろうとした。長年染み付いた、長時間労働スタイルで突破しようと思ったのである。

 これがだんだん、夫婦関係にも軋轢を生むようになってきた。夫は、我が家の稼ぎ頭であるにもかかわらず、どんなに多忙でも、帰宅が午後5時を回ることはまずない。一方の私は、「この締切が終わるまでは」とか「今月は特別忙しくて」と、あれこれ言い訳しながら、子どもが寝る午後8時を過ぎても帰ってこない。

 そんな私に夫は、「子どもたちが小さい時期なんてあっと言う間だよ」とか「貴重な時期を見逃して、後悔しないか心配」などと言う。

 これが、罪悪感を抱かせるのである。私だってそんなことはわかっているけど、私に言わせれば、デンマークの労働時間が短すぎるのだ。休暇だって、そんなに全部取る必要、ある? 記事のクオリティを落とせっていうわけ? という議論はしょっちゅう。

 さんざん北欧人の時間の使い方のまっとうさを説いておいて、我ながら矛盾していると、頭ではわかってはいる。とはいえ、働き方とは、アイデンティティに深く根ざした問題なのである。

 私の場合、長時間労働をなかなか手放せなかったのは、それが自分にとっての数少ない武器だと思っていたからだった。

 特段の苦労をして育ったわけでもないけれど、九州のごく普通のサラリーマンの家に生まれた私が、東京に行って面白い仕事をするためには、女性でも一目置かれる存在になるためには、努力してそれなりに競争を勝ち抜いていく必要があったのだ。勉強にしろ仕事にしろ、長時間でも頑張れることが才能だと思っていた私にとって、その力を否定されるというのは、羽をもぎとられるような気分なのである。

 40歳間際で言葉も知らない国に移住し、経済的にも滞在資格の面でも、何もかもを夫に頼ることになり、それまでせっせと築いてきたキャリアとか人脈とか友人関係とか、様々なものから切り離されて、「ゼロ」に戻ったような感覚があった。

 “アンチ・頑張り”なデンマーク人たちと話していると、椅子取りゲームの椅子に座っている側が、椅子を探して焦っている私に「もっとリラックスしたら?」って言うような残酷さを感じて、歯がゆい思いになるのだ。

時間優先で仕事を決めるのか、仕事優先で時間を決めるのか?

 そんなふうに、短時間労働が敵に見えていた私にとって、考えさせられることになったのが、あるキャリアカウンセラーの取材だった。

 きっと、デンマーク人のなかにも、私みたいに焦りを感じている人はいるだろうと、このカウンセラーに「これって、デンマークの短時間労働の“ダークサイド”ですよね」と聞いてみた。だが、その人は、真っ向から否定してこう言った。

「週37時間という労働時間に問題はない。家族との健全な関係を保つためにも、個人として仕事以外の時間を楽しむためにも妥当な時間数で、むしろ、もっと短時間にしようという動きがあるくらい。問題は、その時間内で終わらない仕事量を割り振る上司か、もしくは仕事をうまく時間内に終えられない自分のマネジメント能力の方。もしも仕事量と自分の能力が合っていないのだとしたら、会社かポジションを変えた方がいい」

 なるほど、そういうふうに考えるわけね……。私は自分の仕事の量ややり方を変えずに、時間をひねり出すことでなんとかしようとするから、短時間労働の文化が敵に見える。だけどこの人は、時間の方を絶対として、仕事の量ややり方を調整しようと考える。

 週37時間労働は正しい、と問答無用に言われてみると、そのいさぎよさがかえって爽快だった。

※本記事は、『第3の時間──デンマークで学んだ、短く働き、人生を豊かに変える時間術』を抜粋、再編集したものです。