Photo:SANKEI
貧困や戦争、左手の切断といった過酷な経験を経てもなお、描くことをやめず、人気漫画家となった水木しげる。好きなことを面白がり続けられた原動力はどこにあるのか。無名時代の歩みから、水木しげるという表現者の原点をたどる。※本稿は、偉人研究家の真山知幸『下積み図鑑 すごい人は無名のとき何をしていたのか?』(笠間書院)の一部を抜粋・編集したものです。
進学も就職もできない
それでも本人はどこ吹く風
漫画家の水木しげるは、1922年3月8日、大阪で生まれるも、すぐに父の仕事の都合で引っ越しをして、鳥取県境港市で育つ。
父は銀行に勤めていたが、怖がりだったため、強盗を恐れ、夜勤を放り出して無断で帰宅。仕事をクビになってしまった。すると、心機一転、近所の芝居小屋を借りて、映画を上映し始めたという。
そんな自由人の父と教育熱心な母のもとで水木は育てられた。しかし、水木少年に最も大きな影響を与えたのは、家で働く「のんのんばあ」という愛称で呼ばれていたお手伝いさんだった。
のんのんばあは、地元に伝わる妖怪や化け物の話を数え切れないほど知っていた。毎晩のように、水木少年は不思議な話を聞かされた。
おとろし、べとべとさん、小豆はかり――これらの妖怪たちは、水木少年にとって恐ろしい化け物ではなく、身近な友達のような存在だったようだ。
水木少年は妖怪や伝説の研究には熱心だったが、勉強はほとんどせず、算数は0点を取る始末。ほかにも、昆虫や貝殻や海草などを集めては家の押入れに溜めこんだり、スケッチしたり、好きなことに没頭していたという。







