戦争で左手を失っても
売れなくても描き続けた
あるとき、水木は重いマラリアを患い寝込んでいたところ、空襲に遭う。左手に大けがを負い、バケツ一杯ほども出血した気がした。軍医は麻酔なしでナイフによる手術を行い、左手を切断。一命を取り留めたが、右手だけで生活せざるを得なくなった。
戦後、水木はさまざまな仕事につくが、絵を描くことは諦めなかった。美術学校に通い、時にはアパート経営をしながら、紙芝居の仕事を7年ほど続けた。しかし、昭和30年頃からテレビが登場。紙芝居が下火になると、水木は東京行きを決意した。
本箱と絵の道具を持って上京した水木は、貸本マンガで生計を立てるが、原稿料はごくわずか。食事は1日1食という日が続いた。
『下積み図鑑 すごい人は無名のとき何をしていたのか?』(真山知幸、笠間書院)
「私も若い頃は、描いても描いてもちっとも売れませんでした。それでも火の玉みたいにがんばった。とにかく、絵を描くことを面白がった。熱烈に絵を描くことが好きだったから、貧乏も苦しい生活も我慢できたんじゃないかと思うね」
それでも水木は描き続けて『墓場鬼太郎』『悪魔くん』など、故郷で培った妖怪の世界観を生かした作品を発表した。しかし、当時の読者にはなかなか受け入れられず、出版社からは「もっと明るい話を描け」「妖怪なんて古臭い」と言われたという。
転機が訪れたのは、1965年のこと。『墓場鬼太郎』が週刊少年マガジンで『ゲゲゲの鬼太郎』として連載されることになったのだ。作品は少しずつ人気を集めて、1968年にはテレビアニメ化が決定。フジテレビで放送された『ゲゲゲの鬼太郎』は、子どもたちの間で爆発的なヒット作となった。
【下積みから考える】
つらくても諦めたくないことはあるだろうか?なかなか思うような結果が出ない状況でも、好きなことを面白がるにはどうしたらよいだろう。
つらくても諦めたくないことはあるだろうか?なかなか思うような結果が出ない状況でも、好きなことを面白がるにはどうしたらよいだろう。







