成績がよくなかった水木は、中学の試験は受けず、小学校の高等科に進学。相変わらず勉強には身が入らず、就職することになった。単身赴任していた父を頼りに大阪に出て、印刷所で働き始める。

 だが、自分の好きなことや興味があることに出くわせば、たとえ仕事中でもかまわず、夢中になってしまう。仕事で外出中に太鼓屋を見つけると、1日中、太鼓を作る様子を見ていたこともあったとか。当然、仕事はクビになってしまう。

左手を失っても、飢えても…水木しげるが「描くこと」を手放さなかった理由イラスト/伊達 努

 進学も就職もできない水木を親はとても心配したが、本人はどこ吹く風だった。

「ぼく自身は、わりかし平気だった。なにしろ、つき合っているものが、虫の世界とか、自然といったものだったから、ヒマができたとばかり、絵ばかり描いていて、とても楽しかった」

 そんなに絵が好きならば、と親は美術学校に通わせることにした。ところが、授業は1日置きで1時間ほど絵を見てもらえれば終わり。物足りない内容だった。

21歳で戦地に召集されるも
マイペースを貫いた水木

 暇を持て余した水木は、1週間に1冊のペースでマンガを手作りしたり、童話の絵本を作ったりした。図書館で人体解剖学の本の図を写したり、野山に出かけていって昆虫や植物をスケッチしたりするのも、お気に入りの過ごし方だったようだ。

 絵を描いて生活をしていきたい――。やがてそんな思いを持つようになった。

 絵が大好きだった水木は、空襲を受けながらも漫画を描いていたが、21歳で召集され、戦場に赴くことになる。過酷な状況でも水木はマイペースぶりを発揮した。

 のんびり動いていたら、偉い軍人だと勘違いされたそうだ。将校用の風呂へ案内され、背中を流してもらったこともあったという。当然、後でバレて怒られたそうだ。

 その後、水木は激戦地ラバウルに送られ、軍隊生活は過酷なものとなる。