しかしひとたび炎上に見舞われると、付随する要素も批判対象になっていってしまう。

冬季五輪の選手への
ネット上での誹謗中傷は社会問題に

 ちょうど冬季五輪の開催中である。メダルを取った選手たちに対しては絶賛が送られ、そこに感動的なストーリーが付随すればなおさらである。これまでのエピソードや、髪型などのスタイル、ちょっとした仕草まで、「かわいい」「すごい」「泣ける」といった言葉で拡散されていく。

 一方で、成績が良くなかった選手はその逆である。今回、日本選手にそこまでにバッシングは見られないが、海外では成績の振るわなかったポーランドの若い選手が、ネット上での誹謗中傷に見舞われたという。

 ポーランドスキー連盟が「ヘイトを容認しません」という内容の声明を出したことが報道されている。こういったアスリートへのネット上での心ない書き込みは、社会問題となっている。

 ネット上ではとにかく、ポジティブもネガティブも拡散されるごとに拍車がかかりやすい。表現に多少の誇張がある方が拡散されやすいからということもあるが、「多少の誇張」が繰り返されるうちに、表現が加速度的に過激になっていく。そしてユーザーはそれを過激とも思わなくなってしまう。

 SNSでは、成功も失敗も、拡散されるほどに拡散者の思惑が付随されていく。称号や肩書は、憧れの対象であると同時に、失敗した瞬間に「叩いてよい存在」へと転じる。そこには、正義も嫉妬も、そしてほんの少しの鬱屈も混じっているだろう。  

 問題は、私たちが極端な賞賛か断罪かのどちらかしか選べなくなっていることではないかと感じる。グラデーションを失った社会では、小さな過ちも、大きな成功も、極端な物語へと変換される。

 その炎上を指差しながら、私たちは本当に問題を正そうとしているのか。それとも、叩ける材料を探し、「批判依存症」に陥っているだけなのか。スマートフォンを握る自分自身にも、問いは向けられている。