忍びという身分なのに「名簿」が実在する
さらに、『弘前藩庁日記』によると、「早道之者」は主にアイヌや敵対する南部藩の監視、諜報活動をミッションとしていたようで、結成は1674年(延宝2年)。
きっかけはアイヌの首長が松前藩に対して蜂起したシャクシャインの戦い(1669年)で、時の藩主・津軽信政が、蝦夷地(現在の北海道)を監視するために甲賀忍者の中川小隼人を召し抱えたのがルーツである。
つまり、アイヌの不穏な動きを事前に察知し、戦争を未然に防ぐために結成された「早道之者」。その呼称には、津軽海峡を越えて弘前城へ、さらには江戸城へと、情報をいち早く伝える者という意味が込められている。
また、面白いのは忍者であるにもかかわらず、弘前藩の『分限元帳』という帳簿の中に「早道之者」の名簿が確認できることだ。その数、およそ60名。“忍ぶ”存在であるはずの彼らがリスト化されているのはなぜなのか。
忍者の多くは専業ではなくパートタイマー的に任務を請け負い、普段は農業や商売などに従事していたと言われる。しかし、「早道之者」は特別なミッションのために創設された特殊部隊であり、弘前藩の“正社員”的なポジションで動いていたと考えられる。ならば、雇用主である弘前藩が、彼らを名簿で管理したのも納得できるというものだ。
いまからちょうど10年前にあたる2016年には、弘前から驚きのニュースがもたらされた。なんと、弘前城からほど近い市街地に、「早道之者」由来の忍者屋敷が現存することがわかったのだ。
当該の家屋は、弘前市内の住宅街の中に極めて自然に溶け込んだ平屋である。
当時の所有者は青森市内で工芸店を営む人物で、用途を失い空き家のまましばらく放置していたが、取り壊すのももったいないとのことで、県内の研究者に相談したのが事の始まりだった。







