北大路 オファーがない時期でも、父は毎日欠かさず散歩に行き、体を動かし、発声練習をしていました。いつ仕事がきてもいいように「その時」のために、常に刀を研いでいたんです。
父は代表作の「旗本退屈男」を「100歳になってもやる」と言い、米寿(88歳)を迎えた時も、日本舞踊を立派に舞っていました。地に足のついた日々の鍛錬。それがあるからこそ、いざスポットライトを浴びた時に、揺るぎない輝きを放つことができるのです。
Photo by Takahiko Hara
一世一代の親孝行
79歳の父に贈った「日本一!」の掛け声
――そんなお父様に、北大路さんはある「親孝行」をされたそうですね。
北大路 はい。父は関西歌舞伎の出身でしたが、東京の歌舞伎座の舞台に立ったことがありませんでした。映画スターとして一時代を築きましたが、心のどこかに「歌舞伎座で演じたい」という思いがあったのでしょう。
ある時、私に松竹から「旗本退屈男」の舞台の話が来ました。私も長年演じさせていただきましたが、父の代表作で十八番です。
父はそのとき79歳でしたが、毎日歩いて足腰を鍛えて、立ち回りもできる。私はそれを知っていたので、プロデューサーにお願いしました。「この役は父、市川右太衛門にやらせてください。私は脇役でいいから、父を東京の歌舞伎座の舞台に立たせてあげたいんです」と。
さらに、「一場面だけでいいから、私と父、二人の退屈男が同時に存在する夢の場面を作ってほしい」と頼みました。私が観たブロードウェイミュージカルにもそういう場面があったのです。
それが実現できることになり、どうしても自分から伝えたくて、私は父の楽屋へ行き、話を切り出しました。「今年の8月、歌舞伎座で『旗本退屈男』をやってほしいというお話が来ていますが、どうしますか?」と。
父に「歌舞伎座? 大阪のか?」と聞かれ、「いいえ、東京の歌舞伎座です」と答えると、顔がみるみるピンク色に紅潮しました。父からすれば歌舞伎座はまさに檜舞台。あんな父の顔を見たのは初めてでした。
父が『旗本退屈男』の早乙女主水之介(さおとめ・もんどのすけ)を演じ、私は額に三日月傷を受ける前の若き日の主水之介を演じました。本番の舞台で、父が演じる主水之介が刀を出したときに、私は父の刀をうやうやしく拭いて、こう叫びました。
「日本一!」
満場の拍手の中で、父が本当に嬉しそうな顔をしていて……。あの時、親に向かって「日本一」と言えたことは、本当に幸せでした。
常に準備をしていたからこそ
最高のパフォーマンスができた
北大路 父は常に準備をしていたからこそ、その晴れ舞台で最高のパフォーマンスを見せることができたのだと思います。年齢を重ねるということは、衰えることではありません。準備さえしていれば、いつか必ず来る「最高の瞬間」を掴み取ることができる。父は身をもってそれを証明してくれました。
ですから私も、まだ見ぬ役、まだ見ぬ出会いのために、今日も明日も準備を続けます。何が来るか分からないからこそ、人生は面白い。私たちの舞台は、まだまだこれからが本番なのですから。
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「仕事がなくても鍛えるのが役者」。
市川右太衛門から北大路欣也へ、そして次の世代へ。この言葉は、不安定な時代を生きる全てのビジネスパーソンへの金言でもある。
それは北大路が演じる三屋清左衛門の「日残りて昏(く)るるに未だ遠し」という言葉にも当てはまる。日が暮れるにはまだ早い。
変化を嘆かず、年齢を言い訳にせず、挑戦し続けること。その静かなる情熱だけが、私たちをまだ見ぬ高みへと連れて行ってくれるのだろう。80代の現役俳優の瞳は、少年のような好奇心で未来を見つめていた。
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