◆なぜ、劉備は天才軍師・孔明が授けた「天下三分の計」を貫徹できなかったのか?
悩んだら歴史に相談せよ】好評を博した『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)の著者で、歴史に精通した経営コンサルタントが、今度は舞台を世界へと広げた。リーダーは世界史に学べ(ダイヤモンド社)では、チャーチル、ナポレオン、ガンディー、孔明、ダ・ヴィンチなど、世界史に名を刻む35人の言葉を手がかりに、現代のビジネスリーダーが身につけるべき「決断力」「洞察力」「育成力」「人間力」「健康力」と5つの力を磨く方法を解説。監修は、世界史研究の第一人者である東京大学・羽田 正名誉教授。最新の「グローバル・ヒストリー」の視点を踏まえ、従来の枠にとらわれないリーダー像を提示する。どのエピソードも数分で読める構成ながら、「正論が通じない相手への対応法」「部下の才能を見抜き、育てる術」「孤立したときに持つべき覚悟」など、現場で直面する課題に直結する解決策が満載。まるで歴史上の偉人たちが直接語りかけてくるかのような実用性と説得力にあふれた“リーダーのための知恵の宝庫”だ。

【三国志に学ぶ】なぜ天才軍師・孔明の「天下三分の計」が崩れた? ビジョン実現を妨げてしまった“感情の罠”Photo: Adobe Stock

「憤慨」という私情を乗り越えられなかった劉備

諸葛孔明181~234年)は、の軍師であり政治家である。本名は諸葛亮であり、孔明は字(あざな)。後漢王朝(25~220年)の末期に生まれた。若くして「晴耕雨読」(晴れた日には耕作し、雨の日には読書する)の生活を送っていたが、後漢末期の混乱のなかで台頭してきた劉備から三度の訪問を受けたことで、その軍師となる(いわゆる「三顧の礼」)。当時中国北部を支配し実権を握っていた曹操の南下に対抗するため、揚子江以南を支配していた孫権と同盟を結び、赤壁の戦いで曹操軍を破るという大功を上げた。その後、「天下三分の計」を進め、曹操、孫権、劉備の3勢力で中国を分割する構想を実現させる。劉備は蜀を建国し皇帝に即位するが、223年に死去。その後、諸葛孔明はその息子である劉禅に仕えた。魏(曹操の息子、曹丕が建国)の打倒を目指し北伐を行うが、志半ばの234年、五丈原で病没諸葛孔明は参謀の理想像として、現代に至るまで高い人気を誇る人物である。

義兄弟・関羽の死と荊州喪失

赤壁の戦い以降、劉備は着実に荊州と益州を手に入れ、蜀の基盤を固めていきました。しかし、「天下三分の計」の要となる荊州を任されていたのは、劉備の義兄弟である関羽でした。

関羽は忠義の人として知られる一方で、傲慢さ独断的な面も持ち合わせていました。彼は呉からの度重なる協調要請を退け、さらには呉の武将を侮辱したことで、孫権の怒りを買ってしまいます。その結果、呉と魏が手を組む事態となり、関羽は討たれ、蜀にとっての要衝である荊州を失うことになりました。

感情に流された劉備の無念の死

義兄弟の死に激怒した劉備は、関羽との「義」を重んじ、呉に対する復讐戦を決意します。しかし、それは蜀の国力を著しく損ねる無謀な戦いでした。結果として劉備は大敗を喫し、失意のうちに病没してしまいます。

つまり、孔明の描いた戦略自体は非常に合理的であったにもかかわらず、人間の感情と行動がその戦略を崩壊させてしまったのです。

果たされなかった「漢王朝再興」の大義

劉備が亡くなった後、孔明は再び呉と同盟を結び、魏を打倒するための「北伐」を開始しました。しかし、魏との国力差はあまりにも大きく、いかに精緻な作戦と戦略をもってしても、打ち破ることはできませんでした。

孔明の北伐は回数を重ねた執念の遠征でしたが、成果は限定的なものにとどまり、最後は五丈原で病に倒れ、志半ばでその生涯を終えます。その後、蜀は魏によって滅ぼされ、劉備が掲げていた「漢王朝再興」という大義が果たされることはありませんでした。