そして、生体内の情報、つまり腸内環境やホルモン、心拍の変動といった身体の状態を無意識に検知して変容している。
私たちは「感じて」いるのではなく、「感じさせられて」いるともいえるのだ。
感情は、感覚情報、過去の経験(記憶)、身体の情報といった多層的な情報が統合された結果なのである。意識はそれをあとから追認することになる。
情動反応は、意識的な思考よりも速く生じる。たとえば、蛇や銃声といった危険刺激に対しては、視覚や聴覚の情報が大脳皮質を経由せず、視床から直接扁桃体に伝達される「短い経路(low road)」を通じて、即座に心拍数の上昇、呼吸の促進、発汗などの自律神経反応が引き起こされる。
これは、感覚野での情報処理が終わり、意識が「これは危険だ」と理解するよりもかなり先に、身体がすでに戦闘や逃走の準備を始めていることを意味する。
言い換えれば、私たちの脳と身体は、意識にのぼるより先に、「生き延びるための即応的な身体応答と行動選択」を無意識的に実行しているのだ。
このような、意識を介さない判断と行動のシステムは、進化的に古くから存在する「情動脳」としての働きであり、意識が関与する認知よりもずっと根源的かつ迅速な反応様式なのである。
意識はそれを後から解釈し、「私は怖かったから逃げた」と物語化しているにすぎないが、本人は自らの意識で逃げたと思い込んでいるだろう。
世界を自分で感じとれない者が
自分で選択できるはずもない
私たちの意識は、本来、世界を“自分で”観察し、判断し選び取るためのシステムだ。五感――視覚、聴覚、嗅覚、味覚、体性感覚はそのためのセンサーであり、それらは記憶と照合しながら無意識層が処理する情報を意識に提供する。
意識はそれらの情報を選択し、束ねて「私のいる世界」と自己との関係性を理解するための装置と言っても良い。
だが、現代に生きる私たちの感覚や情報の選択は、いつのまにか何者かに代行されるようになってはいないか?







