朝起きてすぐに手に取るスマートフォン。移動中も目はSNSのタイムラインにくぎ付けとなり、耳には常にワイヤレスイヤホンが差し込まれている。電車の中でも、街中でも、家の中でも、多くの人々は人工的な映像と音声に包まれている。

 自然の光や風、他者の声、時間の流れといった「外界の手触り」は、私たちの感覚から少しずつ遠ざかっている。五感は、人工的につくられたネットワークの中の情報を獲得するためのセンサーに変化してきている。人々は脳をネットに預け、思想や思考さえもAIにアウトソーシングし始めている。

 これは単なるライフスタイルの変化ではない。意識が処理する情報の構成素材が変質しているのである。

 本来、意識とは「外界の情報を能動的にサンプリングし、意味づけ、行動を導く」ためのものだ。ところが今や、その“外界”はすでに選ばれ、整えられたデジタル情報にすり替わっている。

 SNSのフィードは、自分が見たいものを表示してくる。動画配信サービスは、あなたの過去の履歴から「次に見るべき」ものを提案してくれる。私たちは、自ら世界を観察することなく、“提示された情報”を通して世界を見ている。この状態は、ある種の意識の外在化と呼べるかもしれない。

 つまり、「何を見るか」「何を聞くか」「何を考えるか」という選択が、すでに“私の外部”にあるアルゴリズムによって先回りされている。その選択は快適だ。迷うことなく、望むものが、望んだように目の前に現れる。

 けれどもその快適さの中で、私たちは自ら「選ぶ力」や「考える力」を放棄してよいのだろうか?

SNSの雰囲気とAIの言葉で選んだ行動は
「自分の意志」と言えるのか

 もともと意識とは、自律的な選択のための機能だった。

 しかし、自己ではない、外部アルゴリズムがその機能を肩代わりすると、私たちの意識はやがて“決定の承認者”に成り下がってしまう。つまり、選択の自動化が進むほど、本来の意識は鈍化していくのである。