そうした自信と自負は、実力もしくは能力によって達成されたと認識される傾向にある。表現を変えよう。移動をめぐる格差や不平等が存在する社会において、高い移動性を有し、それを実現する人々の多くは、自身の移動資本やネットワーク資本、それらがもたらした成功を、“道徳的に正当なもの”だと思っているのである。
なぜこうした発想に至るのか。それは、グローバル化と新自由主義に覆われた21世紀の社会が、イノベーションやアントレプレナーシップ、成長の追求、そして移動を重要な価値としているからである。しかし、実はほかにも「成功したいなら移動せよ、なぜなら私はたくさん移動したから成功したのだ」という確信と論理を支える一種のイデオロギーが存在する。それが、能力主義(メリトクラシー)である。
能力主義は、イギリスの社会学者マイケル・ヤングが著書『メリトクラシー』で世に送り出した概念である。個人の能力に基づいて社会的地位や権力が分配されるべきという理念と、それに基づく社会を意味する。
それでは、能力主義という観点から人々の移動を考えてみよう。
階級や階層を超えて、すべての人が能力・実力だけに基づいて移動する/できる平等な機会を手に入れたら、どんな世界になるだろうか。素直に考えれば、それは理想的な世界に思われる。社会階層が低い労働者階級の人々が、社会階層が高い特権階級の人々と肩を並べ、公正に競いあったうえで高い移動資本を獲得し、オンライン・オフラインを問わず好きなときに好きなところに移動できるようになり、移動資本を蓄積していくのだから。
しかし、残念ながら、能力主義はこのような理想的な移動をめぐる状況を実現できない。能力主義がはびこる眼の前の社会を見れば、わかることである。なぜなら、勝者の中にはおごりを、敗者の間には屈辱を育まずにはおかないからである(Sandel:2020)。
勝者は自分たちの移動や人脈、成功を「自分自身の能力や努力、優れた実績の結果に過ぎない」と考え、自分よりも移動しない人々を見下すだろう。現に、「できないとか言ってないで、いますぐ移動すればいいのに」「海外に移動してチャレンジする勇気がないから成功しないんだ」といった言葉が、移動強者とでも呼べる人々から聞こえてくる。そして、成功していると感じない移動性が低い人々は、こうなった責任は自分にあると思ってしまう。







