サラリーマンでありながら海外の映画祭でグランプリを受賞した長久允氏。その思考法と脚本術を存分に伝える『あなたにしか作れないけれど、世界に通用してしまう 脚本の教室』が発売となりました。佐久間宣行さん、ラランド・サーヤさんも大絶賛する同書について、長久氏へのインタビューも交えて深堀りします。(聞き手・文/飯室佐世子

脚本の教室Photo: Adobe Stock

「書くこと」は最強のメンタルケア

上司からの理不尽な叱責、クライアントへの愛想笑い、あるいは過去の仕事での大きな失敗。

私たちは日々、ネガティブな感情を必死に押し殺し、社会性という鎧を着てビジネスの荒波を乗り越えています。

しかし、感情に蓋をし続けると、いつしか自己肯定感はすり減り、心が悲鳴を上げてしまう。

そんな現代のビジネスパーソンに向け、サンダンス映画祭でグランプリを受賞した映画監督・長久允氏は、「脚本を書くこと」を最強のメンタルケアとして推奨します。

映画監督になりたいわけじゃなくても

「映画監督になりたいわけでもないのに、脚本なんて書けない」と思うかもしれません。

しかし、長久氏は「脚本の公募とかに出して評価されることを目的とするとまた違う。素直に書いた方が自分のためになる」と語ります。

実は、誰にも見せない前提で、自分の中の怒りや悲しみを物語の形に書き殴る行為には、絶大な癒やしの効果があります。

長久允(以下、長久):脚本を書くことは、私にとってはスイカゲームより脳のリラックス効果が高いという説がありますよ(笑)。本で紹介している脚本のメソッドの中には、キャラクターの曼荼羅を書いたり、架空の土地のマップを書いたりする工程がありますが、これらができた時の包容感とか脳のヒーリング効果は本当に高いと思う。脚本はセラピー的な要素があるんです。

なぜ、脚本を書くことがセラピーになるのでしょうか。それは、「メタ認知」という心理的メカニズムが働くからです。

つらい過去を「エンタメ化」する魔法

私たちは、自分自身の失敗や悲しみの渦中にいるとき、主観的な視野に縛られ、ただただ苦しむことしかできません。

しかし、それを「物語」として客観的に書き出そうとした瞬間、視点がガラリと変わります。

著書の中で、長久氏はこのメカニズムを鮮やかに解説しています。

あの頃つらかった自分を、上方からもうひとりの自分が観察して書き記していく。そうやってある種のエンタメ化していくわけです。つらさは哀しみに、惨めさは滑稽さに。や、そこまで変換されなかったとしても、主観的な思い出から一歩抜け出すことができるでしょう。
--『あなたにしか書けないけれど、世界に通用してしまう 脚本の教室』P.231より

心理療法のひとつに、過去の出来事を冷静に振り返り書き記す「日記療法」がありますが、脚本を書く行為はそれをさらに客観的(メタ的)にし、自分をエンタメ化していく荒療治に近いと言います。

過去のつらい体験や、誰にも言えない恥ずかしい感情。それを、「物語の主人公」という他者に背負わせて書き出してみる。すると、不思議なことに、その苦しみから解放される感覚を味わうことができるのです。

自分の「欠点」を肯定できたとき、自己肯定感は蘇る

さらに、多くの物語は「欠点のある主人公が、それを抱えながら課題を解決していく」という構造を持っています。

長久:物語にはキャラクターが必要で、その設定を書くときに、良くない癖や欠点も書いていくんですね。

あくまでフィクションではありつつも、自分と類似性のある欠点が湧き出てきたりするので、それを肯定していく物語になっていくと、自己肯定感にも繋がると思うんですよね。

自分の弱さや醜さを隠すのではなく、愛すべきキャラクターの個性として描き、彼らが前に進む姿を想像する。それはすなわち、自分自身の人生を肯定する作業に他なりません。

長久氏は著書の中で「天才はいない。個人的さだけがそこにある」と力強く断言しています。

誰もが羨むようなサクセスストーリーや、見栄えの良い「それっぽい」物語なんて書かなくていいのです。

社会性の服を着て無難にやり過ごすだけの毎日に疲れたら、今夜、一度スマホのメモを開いて、自分の中の怒りや悲しみを書き殴ってみてはどうでしょうか。

そのとっ散らかった感情のアウトプットこそが、社会の波にすり減ったあなたの「裸の自分」を取り戻し、心を救う最初の一歩になるはずです。

(本稿は、『あなたにしか作れないけれど、世界に通用してしまう 脚本の教室』の発売を記念したオリジナル記事です)