スタートアップが成功できるか、失敗して消えてしまうか? それを決めるのは、Product Market Fit(PMF:プロダクト・マーケット・フィット/市場で顧客に愛される製品・サービスを作ること)を達成できるかどうかにかかっている。『増補改訂版 起業の科学 スタートアップサイエンスVer.2』(田所雅之著、ダイヤモンド社)は、起業家の8割が読み、5割が実践する起業本のベストセラー『起業の科学』を9年ぶりに大改訂した最新版。本連載では同書から抜粋して、スタートアップの成長を加速するポイントについて、わかりやすくお伝えしていきます。
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現場で磨いたインサイトを自社の知見に変換
「成功する人は、他の人が知らない秘密を知っている」
PayPal共同創業者のピーター・ティール氏は、自著でこうした主旨のことを述べている。
クレイジーなアイデアは、他の人が目をつけないようなポイントに注目してアイデアを掘り下げ、まだ誰も言語化できていない秘密を見つけることで生み出される。
前回取り上げたTeslaとStripeの2社も、起業家たちがこれまで歩んできた人生で獲得した専門知識に加え、外部環境の変化への洞察、現場で磨いたインサイトを自社の知見(秘密)に変換してきた。
「業界が諦めていること」にフォーカスする
ラクスルは、印刷業界をクラウド上で統合管理するプラットフォームを提供している。顧客がオンラインで印刷データをアップロードすると、全国の提携印刷会社の中から最適な印刷会社が自動選定され、印刷・納品まで一気通貫で処理される。
名刺、チラシから企業向けノベルティ、段ボール・梱包材まで、4,000点以上のテンプレートと2,000万点以上の素材を活用しながら、すべてが単一プラットフォームで完結する。
創業者の松本恭攝(やすかね)氏は、外資系コンサルティングファームA.T.カーニー時代に印刷業界の非効率性を目の当たりにしたエンジニア出身の経営者だった。
大日本印刷と凸版印刷の2社が50%以上のシェアを握りながら、その60~70%を全国に約3万社ある中小の印刷会社に外注するという構造で、印刷機の稼働率は5~6割程度にとどまっていた。
重要なのは、松本氏が「印刷業界の多重下請け構造は仕方がない」という業界通念に疑問を持った視点である。イノベーションは「業界が諦めていること」にフォーカスすることから始まる。
業界全体が諦めていた3つのトレードオフ
印刷業界には、誰もが「解決不可能」として受け入れていた構造的なトレードオフが存在していた。
・トレードオフ①:顧客側の「低価格 vs 高品質・短納期」
多重下請け構造により中間マージンが積み重なり、「安くしたければ品質や納期を妥協する」「品質・納期を重視すればコストが高くなる」という二者択一が業界の常識だった。
・トレードオフ②:印刷会社側の「稼働率向上 vs 営業コスト削減」
新規顧客獲得には高い営業コストが必要で、機械の非稼働時間(40~50%)を埋めることができなかった。稼働率の低さは業界全体が受け入れている現実だった。
・トレードオフ③:業界構造の「規模の経済 vs 柔軟性・効率性」
大手2社が市場を支配しながらも、実際の生産は非効率な多重下請けに依存せざるを得ない。規模と柔軟性・効率性の両立は不可能とされていた。
最も本質的だったのは、「印刷会社の機械稼働率向上」と「顧客のコストメリット」が完全に無関係という業界構造そのものだった。発注企業は単なる「印刷物を買う顧客」であり、印刷会社の生産性向上が顧客に還元される仕組みは存在しなかった。
既存企業の拒絶が証明したビジネスチャンス
ラクスルの創業者たちは複数の印刷会社に新規事業として提案したが、すべて却下された。既存企業にとって、シェアリングエコノミーモデル(モノやサービスを必要なときに共有して使う経済の仕組み)は、高額印刷機械投資と長期メンテナンス契約の収益構造を破壊するものとして脅威に映った。
またプラットフォーム化という仕組みも、各地域の下請け印刷会社との関係を考えれば、相容れないものだった。大日本印刷や凸版印刷などの既存大手は「自社工場+多重下請け」というアプローチに固執していた。
一方、ラクスルの「印刷機シェアリング・プラットフォーム型」のビジネスモデルは、一見リスクが高い。品質管理、納期遵守、既存取引先との関係悪化への不安があり、ITリテラシーの低い印刷業界では特に懸念視された。
しかし、この全面的な却下により「既存企業がレガシーシステムで身動きが取れないという巨大なビジネスチャンス」が、そこにあることが明確になった。
誰も達成できなかったWin-Win構造の実現
ラクスルは、業界が「不可能」として諦めていた、以下の3つのトレードオフを同時に解消した。
・解消①:顧客は「低価格」と「高品質・短納期」を同時獲得
オンラインのプラットフォームによる中間業者の排除とマッチングの最適化により、顧客は単なるコスト削減だけでなく、品質向上と納期短縮を同時に得られるようになった。
・解消②:印刷会社は「稼働率向上」と「営業コスト削減」を両立
印刷会社は、機械の非稼働時間の収益化と、新規顧客開拓の営業コスト削減を、プラットフォームが自動的に案件をマッチングすることで実現した。
・解消③:業界全体で「規模の経済」と「柔軟性・効率性」を統合
全国3万社の中小印刷会社の生産能力をプラットフォームで統合することで、大手企業の規模の経済と、中小企業の柔軟性を同時に獲得した。
中でもそのビジネスモデルの核心は、印刷会社の稼働率向上が売上増加に、顧客のコスト削減が取引量増加につながるという循環構造を設計したことにある。従来は無関係だった両者の利益を連動させ、誰も達成できなかったWin-Winの関係を築いたのだ(図表1-1-7)。
テクノロジーによる信頼構築
ラクスルは独自のテクノロジーによる品質管理システム、リアルタイムでの進捗管理、24時間対応のカスタマーサポートで業界の懸念を払拭した。
2025年時点で累計200万ユーザーを突破し、売上619億円(前年比21.2%増)まで成長。業界が「不可能」として諦めていたトレードオフの解消が、新たな市場を創造した。
(本稿は『増補改訂版 起業の科学 スタートアップサイエンスVer.2』の一部を抜粋・編集したものです)
株式会社ユニコーンファーム 代表取締役CEO
1978年生まれ。大学を卒業後、外資系のコンサルティングファームに入社し、経営戦略コンサルティングなどに従事。独立後は、日本で企業向け研修会社と経営コンサルティング会社、エドテック(教育技術)のスタートアップの3社、米国でECプラットフォームのスタートアップを起業し、シリコンバレーで活動した。
日本に帰国後、米国シリコンバレーのベンチャーキャピタルのベンチャーパートナーを務めた。また、欧州最大級のスタートアップイベントのアジア版、Pioneers Asiaなどで、スライド資料やプレゼンなどを基に世界各地のスタートアップ約1500社の評価を行ってきた。これまで日本とシリコンバレーのスタートアップ数十社の戦略アドバイザーやボードメンバーを務めてきた。
2017年、新たにスタートアップの支援会社ユニコーンファームを設立、代表取締役社長に就任。その経験を生かして作成したスライド集『スタートアップサイエンス2017』は全世界で約5万回シェアという大きな反響を呼んだ。
主な著書に『起業の科学』『入門 起業の科学』(以上、日経BP)、『起業大全』『「起業参謀」の戦略書』(ダイヤモンド社)など。





