人間は本来、遊ぶためにこの世に生まれてきたのに、多くの人がそのことを理解していないのは残念なことだ。そんなメッセージが、この歌には込められている。人生はただ楽しめば良いものなのに、人はもっと深刻なものとして人生を捉えがちだ。私自身もそうだったから、この歌は心に残った。

 人はもっと遊べば良いし、もっと楽しめば良いし、じぶんを愛すれば良い。

 だが、じぶんを愛するということは、多くの宗教で否定的に扱われてきた。自己愛や我欲を捨てることこそが、神や仏に対する帰依の必要十分条件とされることが多い。

家族、財産、権力、全ては
自己を愛するがゆえに愛おしい

 そんなことを考えながら読書を重ねていると、サンスクリット語で書かれたウパニシャッドにおもしろい一節を見つけた。古代インドで編纂された宗教的文書は「ヴェーダ」と総称され、そのうち儀式、呪文、秘教的知識を記した「奥義書」にあたる100編あまりの文書が「ウパニシャッド」だ。

 『白ヤジュル・ヴェーダ』に含まれる、最初期のウパニシャッドのひとつとされる『ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド』を見てみよう。そこでは高らかに自己愛が歌いあげられている。

ああ!まことに、夫を愛するがゆえに夫が愛しいのではない。そうではなくて、自己(atman)を愛するがゆえに夫は愛しい。ああ!まことに、妻を愛するがゆえに妻が愛しいのではない。そうではなくて、自己を愛するがゆえに妻は愛しい。ああ!まことに、息子を愛するがゆえに息子が愛しいのではない。そうではなくて、自己を愛するがゆえに息子は愛しい。ああ!まことに、財産を愛するがゆえに財産が愛しいのではない。そうではなくて、自己を愛するがゆえに財産は愛しい。ああ!まことに、聖職者の権力を愛するがゆえに聖職者の権力が愛しいのではない。そうではなくて、自己を愛するがゆえに聖職者の権力は愛しい。ああ!まことに、支配的な権力を愛するがゆえに支配者の権力が愛しいのではない。そうではなくて、自己を愛するがゆえに支配者の権力は愛しい。ああ!まことに、諸世界を愛するがゆえに諸世界が愛しいのではない。そうではなくて、自己を愛するがゆえに諸世界は愛しい。ああ!まことに、神々を愛するがゆえに神々が愛しいのではない。そうではなくて、自己を愛するがゆえに神々は愛しい。ああ!まことに、生きものを愛するがゆえに生きものが愛しいのではない。そうではなくて、自己を愛するがゆえに生きものは愛しい。ああ!まことに、一切を愛するがゆえに一切が愛しいのではない。そうではなくて、自己を愛するがゆえに一切は愛しい。
(湯田豊『ウパニシャッド 翻訳および解説』、大東出版社、2000年:P47)

神を侮る自己愛で
世俗の国が作られた

 なんという高らかな自己愛絶対主義だろうか。このような考え方が、しばしばほかの宗教者たちからは否定的に見られてきたことが残念だ。

 現在の認知行動療法は、健全に自己を愛することこそ、あらゆる健康生活の基盤と考えるようになっている。そんな考え方に通じる知恵が、はるか紀元前に成立した宗教書にはたっぷり含まれている。

 バランスを取るために、自己愛を警戒する考え方も見てみよう。たとえば初期のキリスト教神学を代表するアウグスティヌス(354年~430年)は、『神の国』でつぎのように書いている。

 この世の国をつくったのは神を侮るまでになった自己愛であり、天の国をつくったのは自己を侮るまでになった神の愛である。一言でいえば、前者は自己自身において誇り、後者は主において誇るのである。
 (アウグスティヌス『神の国』第3巻、服部英次郎(訳)、岩波書店、1983年:P362)

 自己愛によって世俗的な喜びを探求する世俗の国が作られ、主に向かう神的な愛によって信仰の喜びを探求する神の国が作られた、とアウグスティヌスは論じる。自己愛が、キリスト教徒がもっとも重視する隣人愛を弱めかねないことが危惧されているのだろう。