人間は本来、遊ぶためにこの世に生まれてきたのに、多くの人がそのことを理解していないのは残念なことだ。そんなメッセージが、この歌には込められている。人生はただ楽しめば良いものなのに、人はもっと深刻なものとして人生を捉えがちだ。私自身もそうだったから、この歌は心に残った。
人はもっと遊べば良いし、もっと楽しめば良いし、じぶんを愛すれば良い。
だが、じぶんを愛するということは、多くの宗教で否定的に扱われてきた。自己愛や我欲を捨てることこそが、神や仏に対する帰依の必要十分条件とされることが多い。
家族、財産、権力、全ては
自己を愛するがゆえに愛おしい
そんなことを考えながら読書を重ねていると、サンスクリット語で書かれたウパニシャッドにおもしろい一節を見つけた。古代インドで編纂された宗教的文書は「ヴェーダ」と総称され、そのうち儀式、呪文、秘教的知識を記した「奥義書」にあたる100編あまりの文書が「ウパニシャッド」だ。
『白ヤジュル・ヴェーダ』に含まれる、最初期のウパニシャッドのひとつとされる『ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド』を見てみよう。そこでは高らかに自己愛が歌いあげられている。
(湯田豊『ウパニシャッド 翻訳および解説』、大東出版社、2000年:P47)
神を侮る自己愛で
世俗の国が作られた
なんという高らかな自己愛絶対主義だろうか。このような考え方が、しばしばほかの宗教者たちからは否定的に見られてきたことが残念だ。
現在の認知行動療法は、健全に自己を愛することこそ、あらゆる健康生活の基盤と考えるようになっている。そんな考え方に通じる知恵が、はるか紀元前に成立した宗教書にはたっぷり含まれている。
バランスを取るために、自己愛を警戒する考え方も見てみよう。たとえば初期のキリスト教神学を代表するアウグスティヌス(354年~430年)は、『神の国』でつぎのように書いている。
(アウグスティヌス『神の国』第3巻、服部英次郎(訳)、岩波書店、1983年:P362)
自己愛によって世俗的な喜びを探求する世俗の国が作られ、主に向かう神的な愛によって信仰の喜びを探求する神の国が作られた、とアウグスティヌスは論じる。自己愛が、キリスト教徒がもっとも重視する隣人愛を弱めかねないことが危惧されているのだろう。
『やっぱり人生を支えてくれる宗教の言葉 二〇〇〇年の叡智から私が学んできたこと』(横道 誠、光文社新書)







