自己愛をめぐる“真逆の教え”から、その本質を考える。写真はイメージです Photo:PIXTA

「自分を愛せ」という言葉は、いまや自己啓発の定番のメッセージとなっている。しかし一方で、自己愛はわがままや利己性と結びつけられ、否定的に語られることも少なくない。実はこの「自己愛」をめぐる評価は、宗教や思想によって大きく異なってきた。ある宗教では人間の根源的な愛とされ、別の宗教では警戒すべきものとされる。自己愛をめぐる“真逆の教え”から、その本質を考える。※本稿は、文学者の横道 誠『やっぱり人生を支えてくれる宗教の言葉 二〇〇〇年の叡智から私が学んできたこと』(光文社新書)の一部を抜粋・編集したものです。

人間は遊ぶために
この世に生まれた

 40歳のとき、不眠障害に耐えられなくなり、休職することを決めた。

 休職中に障害者職業センターに通って、認知行動療法に出会ったことは、ひとつの転機になった。じぶんの困りごとに対する具体的な「対処」(コーピング)の方法を知ることができたからだ。

 そのあとで、そのような対処を専門家抜きにできる技法としての当事者研究に出会って、これにのめりこんでいった。当事者研究とは、自分の生きづらさ(苦労)の仕組みを、似た問題で苦しむ仲間と共同研究することによって、生きづらさの低減を模索する取りくみのことだ。

 しかし思えば、その時期以前に、私が宗教的な内容を記した本を読むことで得てきた情報も、多くは生きづらさをやわらげるためのものだったのではないか。発達障害を持って生まれ、宗教2世として育った私にとって、そして心理学を学んでいない私にとって、生死に関する人類史的な知恵が救いになっていた。

 私はそれらを学ぶことによって、じぶんの心をうまく治めることができるようになりたいと願った。そのような願いを持って、自己啓発本を読んでいる読者も多いのではないだろうか。

 平安時代末期に後白河法皇(1127年~1192年)によって編まれた『梁塵秘抄』の代表的な歌は、昔から私の心に響くものだった。

遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声聞けば、わが身さえこそ揺がるれ
(西郷信綱『梁塵秘抄』、講談社、2017年:P174)