「女子の東大・京大」という称号――女子大の輝かしい歴史

 人口ピークであった団塊ジュニア世代である筆者の学生時代、お茶女(お茶の水女子大)や奈良女(奈良女子大)、津田塾に神戸女学院といえば東西の女子大の中でも最難関で、憧れの第1志望とするのはもちろんのこと、早慶上智など難関大の併願校とする女子は少なくなかった。

 さらにもう1つの人口ピークであった団塊世代である筆者の母の時代は、国立の女子大であるお茶女や奈良女は「女子の東大・京大」との称号を得て、日本各地の目から鼻へ抜けるような聡明な女子たちが集う、選ばれし者の学び舎であった。お茶女や奈良女の大学院は修士・博士課程を通して高水準の研究姿勢と論文が要求される厳然たる研究機関であり、それこそ東大・京大の博士課程へと進む学生も少なくなかった。

 女子大の存在を「共学に及ばないもの」と思っている人は、その認識を改めるべきである。国私立問わず、明治大正から昭和初期の女子高等教育に対する社会的要請、つまり「高度に知的で学力の高い女子のために、安全な高等教育環境をつくる」というニーズから生まれた女子大は、実は発生からして極めてアカデミックな性質を持つ場所だ。

 お茶女・奈良女の前身が官立女子師範学校であり、女性教員育成の場であったことからも、まさに女子大が始点となって国家の隅々まで高水準の女子教育が拡散していったのだと言える。

スーパー知性を誇る女性教員たち

 お茶女出身の女性教員といえば、筆者が学んだ女子中高(桜蔭学園)は、学年の半分が当たり前に東大か医大(医学部)に行くというゴリゴリの進学校なのだが、先生方の多くはお茶の水女子大卒で、スーパー知性の持ち主揃いだった。

 振り返れば、「元祖リケジョ」とでも呼ぶべき超絶インテリおばさま先生も、たくさんおられた。

 例えば化学の時間。「あなた方は自分の頭で考えて責任を取れる生徒さんですから、そのお邪魔はしません。仮に授業を聞いていなくてもわたくしは怒ったりしませんが、その代わり静寂だけは約束してください」と、戦前生まれの総白髪のおばさま先生がまっすぐな姿勢で長い化学式を黙々と板書する。おばさま先生の背中を見ながら、その価値をまだ理解できていない女子生徒たち(私だ)は著しくくだらないことをコソコソ書いた手紙を、こっそり回していたものだ。

 日本版のキュリー夫人みたいな先生が、「仮説検証です」と言い出して、目の前で何やら試験管とチューブを組み合わせ、液体にツブツブ(結晶)を混ぜて泡を出したり火をつけたりするのをぼんやり眺める。その結果の考察から導かれる理論的説明を、眠気をこらえて聞くうちに待望のチャイムが鳴り、「わーい、お弁当だー!」と喜ぶ日々だった。しかし今ならその凄さがわかる。

 計算するに1920年代生まれ(100年前だよ、諸君!)の女性が、太平洋戦争下の青春を生き抜き、お茶の水女子大で化学を修め、理科の教員免許を取得し、アラ還でなお明晰な頭脳と日々の通勤や授業に耐えうる充分な体力のまま(しかも知性がそのまま顔立ちに映る美しい人だった)、文京区本郷の女子中高で教壇に立っていたのである。優秀な女性は国の宝である。