以後秀吉は、横山城に陣取って、対浅井戦線の中核を担うことになります。
横山城に入った秀吉は、まず交通路の遮断に取りかかります。
北近江から京都へ向かう主要ルートを押さえることで、浅井方の移動や補給を制限し、戦略的に圧力をかけていきました。さらに、小谷城周辺で断続的にゲリラ行為を行い、敵の消耗を誘います。いわば、正面決戦ではなく、「包囲と疲弊」を狙った戦い方で、浅井の力を削いでいこうとしたのです。
寝返りを連鎖させた秀吉の暗躍~浅井は内側から崩れた
秀吉の真骨頂は、やはり調略にあります。秀吉は、浅井家に属する国衆に働きかけ、織田方へと引き入れることで、内側から勢力を切り崩していきました。
最初に織田に寝返ったのは、佐和山城主の磯野員昌です。直接秀吉の調略を受けたという記録はありませんが、彼の居城・佐和山城と浅井の居城である小谷城の間に、秀吉の横山城が存在したため、元亀2年(1571)2月、織田軍に攻められた員昌は、浅井からの援軍は見込めないとみて、織田に寝返ったのです。横山城に居座る秀吉の存在が、いかに大きかったかがわかります。
さらに同年10月には、宮部城主の宮部継潤が、秀吉の調略によって、織田方に寝返りました。
この宮部継潤は、のちに秀吉の甥にあたる人物(のちの豊臣秀次)を養子に迎え、秀吉の与力となり、織田陣営で様々な活躍を見せることになります。
さらに、天正元年(1573)には、山本山城の阿閉貞征も、織田方へ転じていますが、この少し前に、小谷城の支城の城主の多くが、次々に織田方に寝返っているため、明らかな交渉の記録はないものの、こうした動きの背後に、横山城の秀吉の調略があったことは、想像に難くありません。
織田信長の妹で浅井長政に嫁いだ市(演:宮崎あおい、※「崎」は立さき)は織田家に戻ることを拒む (C)NHK







