秀吉配下で台頭、秀長を補佐

 織田方に属した後、宮部継潤は、秀吉の与力として小谷城攻めに参加し、元亀年間を通じた攻防戦で活躍しました。そして天正元年(1573)の小谷城落城後、所領を安堵されます。

 その後は秀吉の中国攻めにも従軍し、とくに秀吉の弟・秀長を補佐して、但馬方面の攻略や、統治に関与しました。しかも宮部継潤の場合は、単なる戦闘だけでなく、占領地の維持・行政にも携わっていたことが、特筆すべきポイントです。

 天正8年(1580)頃には、但馬豊岡城主となり、地域支配の拠点を担います。また、対毛利戦の前線にも関与し、山陰方面における重要な役割を果たしました。

 さらに天正13年(1585)の九州征伐後、加増を受け、因幡鳥取城主にも任じられます。

継潤の晩年と、宮部家のその後

 天正18年(1590)の小田原征伐ののち、宮部継潤は家督を嫡男・宮部長房に譲りました。しかし、その後も秀吉への奉仕は続き、文禄の役への従軍を願い出たほか、因幡銀山の経営や、伏見城の普請などにも関与しました。最終的には8万石以上の大名へと成長しています。

 慶長4年(1599)、宮部継潤は亡くなりましたが、それはちょうど、秀吉の死の翌年にあたります。残念ながら、関ヶ原の戦いで息子の長房が西軍に属したため、宮部家は改易となり、没落してしまうことになります。

 宮部継潤は、僧から武士へと転じ、戦国の動乱の中で柔軟に立場を変えながら生き抜いた人物です。特に、調略への対応力、占領地の統治能力、そして秀吉政権における山陰支配への貢献は高く評価できます。

 知名度こそ高くありませんが、その実績を見ると、決して脇役にとどまらない存在であり、秀吉政権を支えた「実務型武将」の一人として、今後さらに注目されるべき人物といえるのではないでしょうか。

『豊臣兄弟!』第16回より(C)NHK『豊臣兄弟!』第16回より(C)NHK

 動画ではこの他、ドラマの弥助、ともさんについてもお話しています。