足利義昭は、武田信玄に出兵を要請し、いわゆる「第一次信長包囲網」が形成されました。南には本願寺、北には浅井・朝倉、そして東からは武田軍という構図です。実際、信玄は三方ヶ原の戦い※で徳川家康を破り、上洛を目指していました。
しかし、この包囲網は、長くは続きませんでした。信玄が、遠征の途中で病死してしまったためです。これにより情勢は一変。槇島(まきしま)城の戦いで敗れた義昭は、京都から追放され、浅井・朝倉も孤立していきます。
信長包囲網 (C)かしまし歴史チャンネル
※三方ヶ原の戦いについては、5ページ目に解説動画をアップしています
刀根坂の奇襲、朝倉滅亡と小谷城の孤立
天正元年(1573)7月、信長は3万の兵で浅井攻めを開始しました。
浅井長政は、約5000人の兵で小谷城に籠りましたが、圧倒的に兵力が少なかったため、すぐに朝倉に援軍を求めました。朝倉家では、浅井に援軍を送るかどうか意見が割れましたが、朝倉義景は、反対派を無視して、自ら2万を率いて出陣。余呉(よご)に本陣を置くと、小谷城の北の大嶽(おおづく)砦に兵を送り、守護させました。
ここで信長は、大雨を好機に大嶽砦を奇襲。これを陥落させます。大嶽砦が落ちたと聞いた朝倉義景は、撤退を決意。
しかし、朝倉義景が撤退すると最初から読んでいた信長は、ただちに退却する朝倉軍を猛追撃し、刀根坂で大打撃を与えました。義景は、命からがら本拠の一乗谷へ逃れましたが、味方の朝倉景鏡の裏切りにあって、大野郡の賢松寺で命を落としてしまいます。
朝倉が滅びたことで、浅井は、完全に孤立することとなりました。






