思わず「あった!」と声に出して喜んでしまう、そんな瞬間です。

 このように最後まで進んでみなければ、結果は分からないという場面は、私たちの人生でも遭遇するでしょう。危険を回避しようとする原始的な本能から、人間の脳は常に瞬時に判断を下そうとしますが、時に結論を急ぎすぎる傾向があります。

 そんな時、古典の世界で名高い孔子の言葉を思い出すと、前に進む力が湧いてくるかもしれません。

『論語』子罕篇

子曰く、山を築くことに譬えて言えば、あとひと掬いで山が完成するという時、その手を止めるのは自分自身である。

地を平らにすることに譬えて言えば、まだひと掬いの土を覆しただけでも、その手を進めたのは自分自身である。

子曰、譬如爲山。未成一簣、止吾止也。
譬如平地。雖覆一簣、進吾往也。

 この一節は孔子の教えとして単独で記されており、「九仞の功を一簣に欠く(最後の僅かな努力を怠り、すべてが台無しになる)」と並んで語られることが多く、解釈はさまざまですが、とにかく最後まで根気強く進むべきだとされることが多いです。

神様が扉を閉めたら
別の窓を開けてくれる

 ただ、実生活では、山が完成するまでその全貌を測り知ることは難しいものです。ゴールまでに必要なのは、本当に一簣の土なのか、あるいはまだ百簣も要するのか、実行しないと分かりません。

『困ったときは中国古典に聞いてみる』書影困ったときは中国古典に聞いてみる』(伏 怡琳、アルク)

 進むべきか、足を止めるべきか、岐路に立つ時、私は心の赴くままに道を選びます。進むと決めたならば、孔子の言葉を胸に、最後まで歩み抜きます。足を止めたいと感じたならば、陸游の詩をそっと口ずさみ、新たな道を探すのです。

 選択がもたらすいかなる結果も受け入れる覚悟さえあれば、その選択は個人の自由です。

 人生には、時に意図せず立ち止まらざるを得ない瞬間も訪れます。探し求めていた店に辿り着けなくとも、思いがけず、別の素敵な店に出会えることもあるでしょう。

 西洋にも、「神様が扉を閉めたら、必ずどこか別の窓を開けてくれる」というよく似た諺があります。たとえ暗い道で迷った時も、自分自身の選択の先に、柳の木陰を通して陽光の下で咲く花々がきっと見える、私はそう思い描いて進む道を選ぶのです。