「努力」せずとも
それなりに暮らしていける

 勿論、何もしていないわけでもない。

 簡単なネタ帳のようなものにアイデアを書き留めるくらいのことは、ここ10年以上ずっと継続している。

 筆者は悪筆なので、じゃあ、ワードでネタを書こうかと、人生で初めてパソコンに触ったのが、30代半ばだ。後に、文章を綴る仕事にありつけたのは、その下地があったからかもしれぬ。といっても、決して、幼少期から本の虫だったとか、「何かと言えば書いていた」といった物語も持たない。行きづまったから、必要に迫られたから、仕方なく、なんとなくやっただけである。

 少なくとも筆者にとって、「努力」という言葉から連想するのは、確固たる意志を伴った修行、特訓といった、ある意味辛さ、苦痛を伴う行為。

 自分にとって不向きなことであっても、「頑張れ!やれば出来る!」と叱咤激励され、苦痛に耐え続ける週刊少年マンガの世界観である。

 文化祭や受験、大人になれば面接や資格試験、大きなプロジェクトのプレゼン等々、ひと時の目標に向けて努力する局面はあるだろうが、長い人生、集英社が推奨するような生き方を常に貫き通すことはできない。

『僕たちにはキラキラ生きる義務などない』書影僕たちにはキラキラ生きる義務などない』(山田ルイ53世、大和書房)

 何度も言うが、当方すでに50歳。数年前、30センチほどの段差から「ジャンプ」しただけで、ふくらはぎを断裂した情けない身だ。

 年々体力や気力は衰え、今更、河川敷で夕陽を浴びながらの喧嘩を経て友情を育むことも、修行を経て見違えるような精神や肉体の進化を遂げることも出来ない。人脈を広げることが必須とされるこの芸能界において、筆者のスマホを鳴らすのは、マネージャーか妻くらいだ。

 執筆や少人数でのトークなど、強いストレスがない割に、それなりの結果を残せること……言い換えれば、出来る範囲の仕事を選り好みして受けてきたからこそ、今も飯が食えているような気がする。

「努力」せずとも、「友情」を育まなくとも、「勝利」しなくても、それなりであれば暮らしていける。何とかはなるのだ。