The Legend Interview不朽
 今回は「週刊ダイヤモンド」1985年10月19日号に掲載されたヤナセ社長、梁瀬次郎(1916年6月28日~2008年3月13日)のインタビューだ。85年9月のプラザ合意直後であり、激化する日米貿易摩擦の渦中にあった。

 梁瀬は、国際的な経済摩擦の根底にあるのは単なる貿易収支の数値ではなく、人々の「心のインバランス」、すなわち「エゴイズム」であると指摘する。それをエレベーターの「クローズボタン」で例えているのが興味深い。自分がエレベーターに乗ったら後ろの人のためにドアを開けて待つことなく、すぐに「クローズ(閉)」のボタンを押してしまう日本人の習性を嘆くのである。他者への想像力を欠いた合理性の追求が、国際社会の相互不信を招くというのだ。その警鐘は、目先の国益だけを優先して関税の壁を築き、他国を排除しようとする、現代のポピュリズムやナショナリズムの危うい姿にそのまま重なる。

 とりわけ、日本のような「資源を持たざる国」にとって、自国第一主義のまん延は死活問題にほかならないと梁瀬は語る。世界を相手に素材を輸入し、製品を輸出して生きる国が永久の繁栄を維持するためには、小手先の経済交渉ではなく、他国から信頼され、尊敬される国であり続けることこそが唯一の生存戦略であると梁瀬は説いている。

 さらに、戦前・戦中の惨禍や、経済包囲網から破滅的な戦争へと突き進んだ歴史の記憶が薄れ、平和と繁栄を「当たり前」として育った世代への危機感を隠さない。

「明日の日本が本当に心配で、昭和16(1941)年のABCDラインに囲まれて、いちかばちかで連合艦隊が出ていった、あの状態をもういっぺん繰り返してはいけないと思うんです」

 昨今、なにかと昔話をする老人を疎んじる風潮があるが、破滅を肌身で知る先人の「感謝と思いやりの欠如がシステムを壊す」という叫びは、40年以上の時を経たいま、再び「自国第一主義」と分断に翻弄される世界を生きる私たちに対する、極めて重いメッセージといえる。当時のバブル前夜の空気感と、戦後を駆け抜けた経営者の生々しい肉声が刻まれたインタビューである。(敬称略)
(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

いまの人たちは利口
いい悪いは別として

――今年はヤナセの70周年で、梁瀬さんは40年社長業を続けてこられたんですね。偉いものですね。

「週刊ダイヤモンド」1985年10月19日「週刊ダイヤモンド」1985年10月19日

 ということは、よく会社がつぶれなかったということ……(笑)。

 結局、若かったからできたのでしょうね。幸せなことに、私はおやじから引き継いだときが大変にいいときで、昭和20年5月25日の東京大空襲の朝ですから。

 その晩におやじの家も燃え、私の家も燃え、会社も燃え、なにもかもなくなってしまった。本当のすっかんぴん。下着も1枚ずつだけで、6カ月間下着を取り換えることもできなかった。履く靴もなかった。ゴム草履で会社へ来ていたような裸の社長ですから、かえって、幸せじゃなかったかと思いますね。

 いまみたいに日本が成長、繁栄したときに跡を継ぐ者は……。どんな山でも真っすぐ上り、なお真っすぐ進めば下りになりますね。私の会社は谷のどん底ですから、歩いて行けば山は上りでしたね。その点、次の世代の人が引き継ぐときというのは、私はむしろ大変だろうと思いますね。

――いま振り返って、よくやったと思いますか。

 無我夢中でしたね。だけど、いま振り返ってみますと、40年間やってきたことの70%は失敗でしたね。あのときああしておけばよかった、こうしておけばよかった、ということは、夜寝ていると、思い出しますね。だから、どうにか今日あるのは、残りの30%じゃないんですか。まだ若い気持ちが残っているんでしょう、悔しいですね。なぜ俺はこんなバカだろう、あのときになぜこうしておかなかったのだろう、と。そのときは最善だと思って、考えてやったつもりですけれども、いま考えてみると非常に愚かだったなと思いますね。

 いまの30代後半から50代前半の人たちは皆さん利口ですね。本当に利口だと思いますね、いい悪いは別として。