「日本第一主義」が国を滅ぼした!終戦直後の皇族首相・東久邇宮が遺した現代への警告
 今回は、1952年3月「ダイヤモンド」臨時増刊 『日本の内幕』に掲載された東久邇宮稔彦(1887年12月3日~1990年1月20日)のインタビューだ。敗戦という未曽有の国難において、日本史上唯一の「皇族出身の首相」として政権を担った人物の極めて貴重な証言である。

 東久邇宮は明治天皇の娘婿であり、陸軍大将の職にもあったが、フランス留学経験から国際的な視野を持ち、軍部内では中立的な立場を貫こうとした人物だった。戦争末期には東條英機らに対して終戦を進言していたことも、インタビューで明かされている。

 45年8月、敗戦直後の混乱のさなか、昭和天皇から直々の要請を受け、火中の栗を拾う覚悟で首相に就任した。暗殺や暴発の危険が常に付きまとい、本人も「生きて辞表が提出できるとは思わなかった」と回想するほど、政権運営は文字通り命懸けのものだった。

 記事ではその緊迫した舞台裏が、当事者の視点から語られている。本土決戦を主張する若手将校らによる宮城(皇居)占拠計画に対し、自ら11回にわたる「説得放送」を行い、国内の暴発を食い止めたという。また、進駐軍トップのマッカーサー元帥との初会談では、冷遇を覚悟して臨んだにもかかわらず、「なぜもっと早く来なかった」と意外なほど丁重な対応を受けたというエピソードも紹介されており、敗戦国指導者としての緊張と安堵が伝わってくる。

 とりわけ注目すべきは、記事の結びで語られている国際社会への視座である。東久邇宮は、かつての日本が「日本第一主義」を押し通したことが破局を招いた本質だったと率直に反省する。そして、これからの日本は国際社会において「譲るべきところは譲り、協調すべきところは協調する」姿勢が必要であると説く。

 世界各地で自国第一主義やポピュリズムが広がる今、平和のためには「謙虚さと国際協調」が不可欠であることを、時代を超えて警告しているようでもある。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

実現しなかった開戦回避の日米会談
戦中も東條英機に終戦を直言

「日本第一主義」が国を滅ぼした!終戦直後の皇族首相・東久邇宮が遺した現代への警告1952年3月臨時増刊号

 お尋ねがあれば、知っていることは、何でも話しましょう。

――あなたは戦争中親米派といわれ、東條英機(太平洋戦争の開戦を主導した総理大臣)とはあまり円滑でなかったようですが……。

 私は親英米派でも反英米派でもなく、専ら中立であった。ある日のこと、近衛文麿総理から「自分は日米会談をぜひやりたいと思う。陛下も、これをご希望になっているが陸軍が乗り気になってない、ひとつ陸軍を説得してくれないか」という相談があった。

 そこで、私は時の陸相東條に会って、近衛総理の意中を伝えたところ、東條は渋い顔をして賛成しなかった。松岡洋右外相も乗り気でなかったようだ。

 後で聞くとルーズベルトは非常に乗り気であったが、ハル国務長官は不賛成であったらしい。

――あなたと近衛さんとの関係は……。

 もとから友達付き合いをしていたし、お互いに、言いたいこと言う間柄だった。死んだ子の年を数えるようだが、日米会談は本当に惜しかったと思う。

 近衛第3次内閣がつぶれ、東條内閣が誕生する直前のことだったが、近衛が私を訪ねてきて「内閣を投げ出すことに腹を決めたが、このままでは日米戦争に突入してしまう。これを防ぐには陸軍を抑えるほかはない。この際あなたに出ていただいて陸軍を抑えてもらいたい」と言う。

 私は「自分は適任でない。もう一度近衛第4次内閣をつくって、急戦論者を一掃したらどうか。その場合、私は閣外にあって、大いに協力する。もし、それもダメなら、そのとき、考えてみよう、とにかく頑張るように」と言って別れた。

 結果は木戸幸一大臣あたりの推薦で東條内閣が生まれてしまった。