老ハンターは一瞬「しまった」というふうに手で犬を呼び戻す仕草を見せたが、犬は逆上してしまっていて穴に頭を突っ込み「わわっわわっ」とほえ続けた。
母グマも「ガオーン」と頭だけ突き出しほえ返した。犬はさっと引き下がりクマも下がると、またほえついた。
クマが身を乗り出し、とうとう外界に全身を晒した。それでも犬がほえつく。クマは「ガオーッ」とほえながら穴から出て犬を10メートルほど追い、穴に戻った。
私は目をみはった。母グマは子グマを守って穴を出ることはないと思っていたからだ。
私を見上げる母グマ(右)と1歳の子グマ 同書より転載
愛犬を食い殺され
老ハンターは怒り心頭
しばらく互いに押しつ戻りつしていたが、犬がほえついたのと同時にクマが大口を開けてほえると、犬の頭がクマの口にかぽっとはまった。
犬は「フエーっ」と悲鳴を上げて痙攣していたが動かなくなり、クマも犬を咬んだまま動かない。
10分ほど経ってクマはぺっと吐き捨てるように犬を放したら、犬はころころと沢の下に転げ落ちて止まった。
老ハンターの心に犬を食い殺したクマへの怒りと、けしかけた自分の判断の誤りへの悔いがないまぜに吹き荒れ「犬を食い殺したクマなど危なあけえ、わしがやっちゃる」と軽トラを駆って家に鉄砲を取りに戻った。
クマも犬も死んだ春は悲しい。「穀潰しの犬」と言いつつ愛犬の死を怒った老ハンターはその後、残された子グマたちを育てたら大きくなり過ぎて、手に負えなくなり引き取り先を探している、と10年後に聞いた。母グマは死んで幼子たちを残していたのだ。悲劇と美談、どこか物悲しく滑稽な事件だった。
あの日から12年後にさらなる後日談を役場担当者から聞いた。
「あの咬まれた老犬はあの後、動物病院に連れて行かれて数年生き長らえたんですよ」
私の心にあの日の春風が通り抜けて清々しいきもちになった。母グマは自分の死は受け入れたが、犬は殺さなかった。
一方で不思議もある。
犬はクマに頭をすっぽりと咬まれたのに、なぜ死ななかったのだろう。犬が主人を優しく咬む「甘咬み」に似た咬み方だったのだろうか。
『家に帰ったらクマがいた』(米田一彦 PHP新書、PHP研究所)
ひとつの考え方だが、あのまま犬を咬み殺していたら「血」によって食本能が覚醒されて、赤子グマたちを食うことを恐れたのかもしれない。
私が小さい頃、飼っていたネコが、産んだばかりの子猫を私の目の前で食ったことがある。母ネコが、まだ若い子ネコたちを育てる自信がなかったみたいだ。
秋田県阿仁町のマタギの統領から聞いたことだが、残雪期の巻き狩り中にクマの越冬穴に猟師が近づくと、赤子グマを食って逃げることがあったそうだ。
母体が残れば次の子グマを産むことができる、野性の切ない宿命だ。
母グマは子グマを生かそうと外敵を傷つけなかった。







