播磨の名門に生まれた官兵衛

 官兵衛は天文15年(1546年)、播磨国の姫路城で生まれました。

 父の黒田職隆は、播磨の有力大名・小寺政職の重臣で、非常に有能な人物だったと言われています。そのため小寺家からは厚遇され、官兵衛の母も、小寺政職の養女として黒田家へ嫁いでいました。つまり黒田家は、小寺家から「身内同然」として扱われていたわけです。

 実際、若き日の官兵衛も「黒田姓」ではなく「小寺姓」を名乗っていました。幼名は万吉、元服後は祐隆、さらに孝隆、そして最終的に孝高へと改名していきます。

 今回の『豊臣兄弟!』の登場シーンで、「小寺官兵衛」と呼ばれているのは、このためです。

羽柴秀吉(左)は、荒木村重(中:トータス松本)に黒田官兵衛(右)を紹介される (C)NHK羽柴秀吉(左)は、荒木村重(中:トータス松本)に小寺官兵衛(右)を紹介される (C)NHK

武芸好きの少年が「天才軍師」へ~文学に目覚めた青春時代

 官兵衛は、武士の子として7歳ごろから寺で学問を学びました。しかし、この頃は勉強より武芸が好きで、あまり熱心な学生ではなかったようです。

 ところが十代後半になると、その態度は一変し、和歌や『源氏物語』『伊勢物語』などに夢中になり、かなり文化的な青年へと成長していったのです。これは、京都の公家文化ともつながりのあった母方・明石氏の影響が大きかったと考えられています。

 ただ、師から「乱世では雅な学問より兵法を学ぶべきだ」と諭されると、今度は兵法研究に没頭するようになります。

 この頃に培われた教養と知略こそ、後の「天才軍師・黒田官兵衛」を支える土台になったのでしょう。

17歳の初陣で才能を発揮、妻は生涯1人だけ

 官兵衛は17歳で初陣を飾り、20代になる頃には黒田家を背負う立場になっていきます。

 22歳の時には、櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘・光姫(てるひめ)と結婚しました。光姫もまた、小寺政職の養女となってから嫁いでいます。それほどまでに、小寺家にとって黒田家は重要な存在だったのです。

 ちなみに官兵衛は、生涯側室を持たず、光姫1人を妻として大切にしました。戦国武将としては珍しく、夫婦仲の良い人物として知られています。