300の兵で3000を撃破!「青山・土器山の戦い」

 永禄12年(1569年)、織田軍が播磨へ侵攻すると、官兵衛は小寺家の家臣として信長軍と戦うことになります。このときの「青山・土器山の戦い」で、官兵衛は驚異的な活躍を見せました。

 青山の戦いでは、わずか300ほどの兵で3000もの敵軍を撃破したのです。さらに土器山の戦いでは、兵力で大きく劣る状況の中、夜襲を成功させて勝利を収めました。

 この戦いによって、「播磨に黒田官兵衛という恐るべき男あり」という噂が広まることになります。

「これからは信長の時代」――官兵衛が見抜いた天下の行方

 天正年間になると、織田信長は勢力を急拡大し、西国にも目を向け始めます。

 しかし主君・小寺政職は、信長に従うべきか迷っていました。そんな中、官兵衛は「これからは信長の時代になる」と強く主張し、小寺政職を説得すると、自ら使者として岐阜へ赴き、信長に従うことを伝えたのです。

 『黒田家譜』によれば、官兵衛は信長に対して、「播磨攻めの大将を送ってくだされば、小寺家が先導役を務めます」と進言したと言われています。

 これに対し信長は、「秀吉を大将とする。よく相談して進めよ」と答えたそうです。

 ここから、秀吉と官兵衛の運命的な関係が始まっていきます。

5000もの毛利の大軍を、農民で退けた「英賀合戦」

 天正5年(1577年)には、毛利軍5000が播磨へ侵攻する「英賀合戦」が起こります。

 兵力差は圧倒的でしたが、ここで官兵衛は奇策を用いました。近隣の農民たちを動員し、自軍を実際よりも大軍に見せかけたのです。

 突然、大軍が攻めてきたと勘違いした毛利軍は混乱し、動揺したところを官兵衛軍に突かれて敗走しました。

 この勝利によって、官兵衛の名声はさらに高まり、信長からも高く評価されることになります。