人間が成長するということは、他者との「ずれ」と上手につきあっていくことです。

読書は人生を
何倍も面白くしてくれる

 円熟した大人の読書では、書物の中で、著者や登場人物という他者に「添いつつ、つながり」ながら、それら他者との「ずれ」を認め、生かしていく方向に持っていきます。

 他者との「ずれ」という試練が、自分というものを自己客観視させてくれます。

 小林秀雄が言うように「他者しか自分の鏡にはなりえない」からです。

 自己客観視が「人生をよりよく生きる」ための強力な武器であることは言うまでもありません。

 読書は想像力を育て、活性化させてくれます。

 想像力とは、元手がなくても人生を何倍も面白くしてくれるありがたい力です。

 言語脳科学者の酒井邦嘉氏は『脳を創る読書』(酒井邦嘉 実業之日本社)という本の中で、

「活字、音声、映像を比べると、情報量としては活字が一番少なく、次いで音声、一番多いのは映像」と述べています。

 活字は情報が少ない分だけ、人は何かで補わなければならない。その何かが想像力です。ここでいう想像力とは「自分の言葉やイメージで考える」ということです。

 人間の脳というものは、情報に空白や隙間ができると、なんとしてでもそれを埋めたがる癖があるようです。むしろ好き好んで空白を見つけては空白を埋めたがる。

 一流の芸術家はそのことを深く理解しており、わざと作品の中に空白を作ります。曖昧なところをわざと残します。それは謎めかしているかもしれません。

 俳句や和歌はすべてを言い切りません。説明しません。ほのめかしや暗示、含意を多用します。それらは人の心の中にそこはかとない余韻と余白を生み出します。水墨画もそうです。色も線も多くは描き込まない。何かをあえて「不足」させます。「不完全」を演出します。

 完全性を目指して、何でもあけっぴろげに、完璧に、すべてを表現するのは、日本では粋ではなく、野暮の骨頂なのです。

読書とは著者と読者による
知的な共同作業である

 読書とは、読者が活字という少ない情報を想像力で補い、不確かなところを自分の言葉とイメージで解決しながら、自分のものにしていく過程です。

 いい書物には、著者の想像力によって、落とし穴のように所々に曖昧な空白が仕掛けられています。

 読者はアスレチック・ゲーム感覚で想像力というアイテムを駆使しながら、空白というクリア・ポイントを1つずつ突破していきます。

 苦労してゲームを制覇していくことで読者は知的興奮をもよおします。そのような仕掛けが、読むという行為を前へ前へと駆り立てるのです。

 読者と著者はお互いのありったけの想像力を出し合って、紙の上の知的ゲームで戯れているかのようです。

読んだ本の内容を「いちいち覚えている人」と「すぐに忘れる人」、正しいのはどっち?『定年後、上機嫌を愉しむ』(齋藤 孝、ポプラ社)

 小林秀雄は次のように述べています。

〈読書も亦実人生と同じく真実な経験である。絶えず書物というものに読者の心が眼覚めて対していなければ、実人生の経験から得る処がない様に、書物からも得る処はない。その意味で小説を創るのは小説の作者ばかりではない。読者も又小説を読む事で、自分の力で作家の創る処に協力するのである。この協力感の自覚こそ読書のほんとうの楽しみであり、こういう楽しみを得ようと努めて読書の工夫は為すべきだと思う。〉(『読書について』小林秀雄 中央公論新社)

 読書とは、読者が参加し、協力して、著者とともに書物を作り上げていく「舞台」なのです。