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普段、文章を書くときに「僕」「私」「俺」など、一人称を意識して選んでいるだろうか。作家・評論家であり、朝日新聞記者としても長年活躍してきた近藤康太郎氏は、ある著名な文芸批評家を取材した際、一人称の表記をめぐって思わぬ叱責を受けたという。「僕」ではなく「私」にしてほしい――。なぜそこまで強いこだわりがあったのか。そして、一人称の違いは文章や人格、さらには世界の見え方まで変えてしまうのか。※本稿は、作家/評論家/百姓/猟師の近藤康太郎『三行で撃つ〈善く、生きる〉ための文章塾』(CEメディアハウス)の一部を抜粋・編集したものです。
ものを書くとは
世界に風を吹き込むこと
文章は、だれが書くか。「自分に決まっているだろう!」と脊髄反射する人は、少し落ち着きましょう。そもそも文章を書くという営為は、「○○に決まっているだろう!」というおっさんくさい断定を覆すこと、ひびを入れることです。ものを書くとは、世界に風を吹き込むことです。
まず最初に、わたしが新聞に書いたコラムを読んでもらいます。なにもこれが名文の見本というつもりで掲げるのではなく、本節の主題にかかわるからです。
〈新聞で「おれ」という一人称を使うのが夢だった。そもそもおれが入社したころは、記者が記事にしゃしゃり出てくること自体、きつく禁じられていた。本欄みたいな記者コラムでも一人称はせいぜい「記者」「筆者」どまり。最近は風向きが変わったのか、「僕」や「私」がやたらと顔を出す。(略)いずれにせよ、いつかこのおれが第1号のおれ様になってやろうと機をうかがってきたのだ。おれおれ主義という(つまらん)。さすがに新聞では難しかったが、サイトの連載コラムで、おれはおれを名乗ることに成功した。(略)そんなおれが最近はまっているのが、ゴンブローヴィッチだ。昨年、生誕100年を迎え(略)、代表作が立て続けに翻訳されたポーランドの孤高の作家。(略)訳者は違うが(略)、しかし一人称が「おれ」なのは共通していた。国にも宗教にも知の伝統にも、すべての権威に不服従だった永遠の反逆者には、確かに僕も私も似合わない。〉







