それはともかく、その文芸批評家が「僕」を使わない理由は、「30歳を過ぎた男が『僕』だなんて、甘ったれてる」というものでした。筋は通っています。

一人称を変えたら
文体まで変わった

 わたしの場合、40歳に近づいて、「僕」を避ける理由が、身体的によく理解できるようになりました。ある本を出版するのを機に、「僕」は一切、やめました。

 そうすると、不思議なことが起きた。一人称を変えただけなのに、文体が変わったのです。「僕」なら平仄の合っていた語尾が、とたんに調子が悪くなる。そして語尾を変えると、文章全体のリズムも変わります。

 文章全体を見直すほか、なくなる。文章全体を見直すということは、つまりスタイルが変わるということです。スタイル(文体)が変わるということは、書く内容も変わってくることを意味します。

『三行で撃つ〈善く、生きる〉ための文章塾』書影三行で撃つ〈善く、生きる〉ための文章塾』(近藤康太郎・CEメディアハウス)

 そして、書く内容が変わるということは、世の中を見る目、世界を切り取る仕方も、変わってくる。一人称を変えると、世界観が変わるのです。それだけ、大きなことなんです。

 スタイル(文体)が複数あった方がいいように、一人称もいくつか使い分けることができるとよいです。なにも同時に使い分けろというのではない。年代によって、変えていく。「僕」という一人称を使っていた時代に持っていた世界観を、捨てるわけではないんです。

「僕」の世界観に、「おれ」の世界観、「わたし」の世界観が足されていく。人格のレイヤー(層)が、厚くなる。バージョンアップするのではない。かつてのOSも、たいせつにもっておく。イメージとしては、そういうことです。

 文章は、人格も変えるんです。思考、感情、判断を変える。人生を変える。人間が発明したもののなかで、〈言語〉こそが、もっとも創造的であり、破壊的でもあり、人間の考えを縛り、同時に自由にするシステムです。だからこそ、文章を書くとは、おもしろく、深く、そら恐ろしい所業でもあるんです。