「おれおれ詐欺」が流行していた時代に、「おれおれ主義」を思いつき、そのギャグ一発で書いたという、賞味期限つきのコラムでした。失礼しました。ただ、いま読み返しても、一人称の重要性に気がついているところだけは、この筆者にも見どころがあるのではないかと思います。一人称は、人が思うよりも、ずっとたいせつです。

一人称の選び方次第で
キャラクターが変貌する

 一人称のバリエーションが豊富なのは、日本語の特性です。思いつくだけで、僕、ぼく、ボク、私、わたし、俺、おれ。「筆者は……」「自分は……」という一人称もあります。まれに、わたくし、あたし、あたい、おいら、わし、小生……。

 一人称に「わし」を選ぶと、苦労しそうですね。狙いすぎです。わしというキャラクターに引っ張られすぎて、かえって文章の自由度を失う。おいらだと、いまはビートたけしのまねにしか聞こえません。

 あえて一人称を書かない新聞記者やルポライターもいます。記者は、事実の前に謙虚であるべきだ、主観を排するべきだということなんでしょうが、一人称を絶対に書かないと決めている文章を読むと、かえって記者の存在が鼻につくように思えます。不在が、存在を強調するんです。

 ところでわたしの場合、ここ十数年、一人称は「わたし」に統一しています。以前は「僕」が多かったです。思うところあって変えました。と、いっても、たいした理由ではない。

 以前、新聞の仕事で文芸批評家を取材したことがありました。取材を終え、コメントをまとめて紙面にしたのですが、うっかり、自分の手癖で一人称を「僕」としてしまった。自分と年齢が同じだったこともあり、また、取材のあいだはじっさい「僕」と発語されていたので、よかろうと思ったのです。掲載後、「自分は、書き言葉で僕は使わない」と指摘を受けました。「私」にしてほしかったと、苦言をいただきました。

 なるほど、彼の著作をよく読めばその通りです。深謝して許されました。のち、その人物は文名が上がるにつれて訴訟魔で知られる人にもなりました。危ない危ない。