日本文学の古典は
明治・昭和文学を選ぶ
日本文学の古典といっても、最初から源氏物語を読めといっているのではない。せいぜい明治時代の、漱石や鴎外以降、太宰や三島に至る昭和文学くらいまで、亡くなってすでに数十年経った作家を読む。
国語の教科書から漱石や鴎外ら日本文学を追放しようとする動きがある。かわりに、契約書の日本語を分かるようにしようという方針らしい。これは、支配層の立場から見れば、当然でもある。学校というのは、国家に有為で、企業に便利な人材(=材料としての人間。いやな言葉だ)を作る“工場”なのだ。
そして国家は、資本の番犬である。わたしたちの味方ではない。その辺はわたしの前著『アロハで猟師、はじめました』を読んでいただきたいが、とにかく、国家や資本は、なにも表現者がほしいわけではない。
労働者、そして消費者がほしいだけなのだ。低賃金で文句を言わず働いて、所得税は給与からの天引きで納税し、自ら作った商品を買い戻す消費者。国家にとって有為な人材、企業にとって便利な人材とは、そんなものだ。
それでは生きられない、生きたくないと思う人が、表現者だ。そういう人が、国語教科書の逆をゆくのは、あたりまえだ。
海外文学を通して
世界の切り取り方を学ぶ
海外文学の古典といっても、これも小説の始まりとされるセルバンテス、ボッカチオあたりから、ゲーテや、ディケンズ、バルザック、ドストエフスキーら19世紀小説の爛熟期ぐらいまでの、だれでもが知っている名作でよい。
海外文学は翻訳で読むわけだから、これは、厳密には語彙や文体を学ぶというより、世界の見方、切り取り方、認知能力を学ぶのだと思っていい。
言語が異なれば、世界の認知の仕方が異なる。よく知られていることだが、「愛」という言葉も、「哲学」という語も、古来、日本にはなかった。西洋から輸入された概念だ。世界の認識の仕方だ。翻訳でもいい。世界の認知の仕方を増やすことが、もの書きにとって必須の鍛錬であることは、ここまで読んでいればもはや言を俟たないだろう。表現とは、畢竟、世界を切り取ること、世界を認知することだ。







