【大人の教養】最短なのに危険すぎたマラッカ海峡、古代商人が選んだ「陸の抜け道」とは?
「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
本連載では、海峡・山脈・河川などの地形を手がかりに、世界史を読み直していく。著者は代々木ゼミナールの世界史講師で、「地図の鬼」と呼ばれる伊藤敏氏。オリジナル地図を通じて、ホルムズ海峡やシルクロードなどの歴史的背景を立体的に理解でき、歴史と地理を同時に味わうことができる。本稿は、伊藤氏の近刊『地図で学ぶ「深読み」世界史』を一部抜粋したものだ。

【大人の教養】最短なのに危険すぎたマラッカ海峡、古代商人が選んだ「陸の抜け道」とは?Photo: Adobe Stock

実は危険なマラッカ海峡、古代商人が選んだ「陸の抜け道」とは?

 マラッカ海峡は、スマトラ島とマレー半島に挟まれ、ベンガル湾と南シナ海を結ぶ最短航路として、古くから海上交通の要衝でした。その歴史を考えるうえで重要なのが、インド洋を主要航路とするマリンロード「海の道」です。この航路の基盤は、モンスーン海流や季節風を利用して航海したオーストロネシア語族の人々によって築かれました。マレー人の一派は後1世紀にはカリマンタン島からマダガスカル島へ移住したとされ、海流と季節風を巧みに活用していたと考えられます。

 その後、アレクサンドロス大王の東征によってギリシア文化圏が拡大すると、ギリシア人も紅海やインド洋の交易に進出しました。プトレマイオス朝エジプトは戦象の確保を目的に紅海沿岸を探索し、その結果、アフリカ東岸や南インドを結ぶ航路の発展につながりました。前30年にエジプトがローマの属州となった後も、同地はインド洋貿易の拠点であり続け、『エリュトゥラー海案内記』からも、後1世紀には季節風を利用した交易が活発化していたことがうかがえます。

東西交流の活発化と港市国家の成立

 後2世紀を迎えると、ユーラシア大陸では西からローマ帝国(五賢帝時代と呼ばれる繁栄期にあたります)、パルティア(イラン国家)、クシャーナ朝(北インド)、サータヴァーハナ朝(中・南インド)、後漢(中国)といった大国が並び立ち、これにより東西交流がさらに促されます。下図を見てください(図5)。

【大人の教養】最短なのに危険すぎたマラッカ海峡、古代商人が選んだ「陸の抜け道」とは?出典:地図で学ぶ「深読み」世界史

 このため、インド洋を介した海上交易路がユーラシアの東西を結合、すなわちマリンロードが実質的に開通することになります。このマリンロードの開通を受け、南インドと中国を介した貿易が活況を呈し、これにより両地域の中継点に位置する東南アジアでも国家形成が見られるようになります。東南アジアでは、河川や海洋に面した港を介した水上交通ネットワークが国家として機能し、こうした国家形態を港市国家と呼びます。

マラッカ海峡が避けられた理由とは?

 後1世紀には、中国の史書に扶南と記される国家が、メコン川下流に形成されます。この当時、南インドから中国に向かうには、ベンガル湾を横断したのち、クラ地峡(現タイ南部)を陸路で経由してインドシナ半島の沿岸を伝うという航路が主流でした。下図を見てください(図6)。

【大人の教養】最短なのに危険すぎたマラッカ海峡、古代商人が選んだ「陸の抜け道」とは?出典:地図で学ぶ「深読み」世界史

 扶南はこのクラ地峡を介した航路の中継点にあたり、インド商人の到来によってインド文化を受容し、その主要港であったオケオ(現ベトナム南部)の遺跡からはローマ金貨も発見されています。他方で、マラッカ海峡は岩礁や小島、浅瀬が多い地形ゆえに船が難破・座礁しやすく、この時点ではまだ安全航路が確立されていなかったため、主要航路たり得なかったのです。

(本原稿は『地図で学ぶ「深読み」世界史』を一部抜粋したものです)