【大人の教養】「地図を描くのが一番難しいのは日本」島国ゆえの意外な落とし穴とは?
世界史の授業で、黒板いっぱいに正確な地図をフリーハンドで描いていく――。代々木ゼミナール講師・伊藤敏先生の代名詞ともいえる板書に、多くの受講生が驚かされてきた。では、地図を描いた経験がほとんどない人でも、あのように描けるようになるのだろうか。先生は、地図を描く力は才能ではなく後天的に身につく能力だと語る。そんな“地図の達人”が「描くのが一番難しい」と断言したのは、私たちに最もなじみ深い日本地図だった。その理由とは何なのか?

【大人の教養】「地図を描くのが一番難しいのは日本」島国ゆえの意外な落とし穴とは?Photo: Adobe Stock

地図の達人が断言! 「描くのが一番難しいのは日本」

 世界史の授業中、黒板に正確な地図をフリーハンドで描いていく。代々木ゼミナール講師・伊藤敏先生の代名詞ともいえるその板書は、受講生にとって世界史を「暗記」ではなく「理解」するための大きな助けになっている。

 では、地図をまったく描いたことがない人が、伊藤先生のように地図を描けるようになるには、どうすればいいのだろうか。そう尋ねると、伊藤先生は迷わずこう答えた。

「これ、結構聞かれるんですけど、僕がまず言うのが『トレースしたほうがいい』ということですね」

 トレースとは、薄い紙を地図の上に敷いて、元の地図をそのまま写すことだ。いきなり白紙に描こうとするのではなく、まずは正しい形をなぞってみる。伊藤先生によれば、それだけでも地図の見え方は大きく変わるという。

「実際の地形を目で見るだけじゃなくて、手を動かして描くことによって、またちょっと違った見方というか、実感ができていくので」

 ただ眺めているだけでは、地形の細部はなかなか頭に入ってこない。しかし、自分の手で線をなぞってみると、海岸線の曲がり方、半島の出方、山脈や川との関係など、これまで気づかなかったものが見えてくる。何度も同じ地形を写していくうちに、やがてモデルを見なくても描けるようになる。伊藤先生は、地図を描く力は特別な才能だけで決まるものではないと言う。

「これは昔、美術の先生に聞いたんですけれども、絵って結構、後天的な能力らしいんですね」

 たとえば子どもは、よく落書きをする。頭の中に浮かんだイメージが、手を動かすことで目の前に形となって現れる。そのこと自体が面白いから、子どもは夢中になって描く。

「頭の中で子どもが描いたイメージが、目の前に形になって出るんです。それが面白いから、すごくワーッと描いちゃうんですよ」

 ところが、そこで「これ以上汚しちゃダメでしょ」と中途半端に止められてしまうと、頭の中のイメージと手元の動きがうまくつながらなくなる。すると、絵を描く感覚が育ちにくくなってしまう。反対に、たくさん描いていると、頭の中のイメージと目の前に描かれる線が少しずつリンクしていく。その感覚は、子どもの頃だけでなく、大人になってからでも身につけることができる。

「すごくいっぱい描いていると、頭の中のイメージと目の前のイメージがちゃんとリンクしていく。だから、それは大人になってからでも習得できるわけですよね」

 漫画家やイラストレーターも、何も見ずにすべてを描いているわけではない。伊藤先生の知り合いの漫画家やイラストレーターも、よいモデルをたくさん揃えているという。

「やっぱり漫画家さん、イラストレーターさんも、必ず何かしらのいいモデルをいっぱい揃えていると言いますね」

 地図も同じだ。最初から完璧に描こうとしなくていい。まずはよいモデルを見つけ、それを写す。手を動かしながら、形を覚える。その積み重ねが、やがて地図を描く力になっていく。では、初心者が地図を描くなら、どの地域から始めるのがよいのだろうか。

「僕の中では、おすすめは東アジアですかね。中国だとか、あの辺は海岸線が比較的簡単なので、描きやすいと思うんですよ」

 東アジア、とくに中国周辺は、海岸線の形が比較的つかみやすい。地図を描き慣れていない人にとっては、最初の練習に向いている地域だという。一方で、ヨーロッパは少し複雑だ。半島や湾、島が多く、海岸線も入り組んでいる。しかし、そのぶん描けた時の手応えも大きい。

「ヨーロッパも、そういう意味では多少複雑ですけど、描けるとやっぱり爽快感じゃないですけど、気持ちいいですよね」

 では、逆に難しい地域はどこなのか。伊藤先生の答えは意外なものだった。

「これは間違いなく日本ですね」

 日本地図は、小学校の頃から見慣れている人も多い。だから一見、簡単そうに思える。しかし、実際に描こうとすると、これが非常に難しいという。

「島の大きさと海岸線の複雑さが、やっぱり段違いなので」

 北海道、本州、四国、九州の大きさのバランス。細かく入り組んだ海岸線。さらに多くの島々。そのすべてを自然な形にまとめるのは、地図を描き慣れている伊藤先生にとっても簡単ではない。

「実は僕も、日本地図を描くのはめちゃめちゃ苦手なんですよ」

 世界史の授業では日本地図を描く機会があまり多くないこともある。それでも、日本地図の難しさは、島の大きさのバランスと海岸線の複雑さにあると伊藤先生は言う。

 地図を描く極意は、才能に頼ることではない。まずはトレースする。よいモデルを見つける。何度も手を動かす。すると、ただ目で見ていた地形が、少しずつ身体でわかるようになる。地図は、眺めるものではなく、描くことで理解するものでもある。伊藤先生の言葉からは、地図を描くことが世界史を深く理解するための入り口であることが伝わってくる。

(本稿は『地図で学ぶ「深読み」世界史』著者へのインタビュー記事です)