その層による社会へのフィードバックが、消費や享楽に向かう方向として「モダン・ボーイ/モダン・ガール」、思想や行動に向かう方向として左翼活動への関心や参加があったといえます。

「モダン・ガール」を
大宅壮一はどう評したか?

 ジャーナリスト・大宅壮一「百パーセント・モガ」によれば、「モダン・ガール」という言葉自体、アナキズムの思想家で当時のモダンな社会を礼賛していた文筆家、新居格が提唱したと言われていました(その前にもこの言葉自体は登場していたという説もあるのですが、大宅壮一は彼が第一人者と記述しています)。この短いコラム的な文章のテーマは、「百パーセント」のモダン・ガールと呼べる存在とは何か、というものです。まず新居格(ここでは『友人N君』)が「モダン・ガール」と評したとある女性について述べています。

明るくて、朗らかで、感覚的で、理知的で、技巧的で、野性的で、複雑で、単純で、率直で――たしかに彼女は、典型的な「モダン・ガール」であろう。

 しかし、そんな彼女の自由は、あくまでも夫の庇護のもとで消費生活を満喫しているだけに過ぎないと手厳しく評価しています。

そもそも最近流行のモダニズムそれ自体が一種の消費哲学である。最少の努力と費用とをもって最大の刺戟と享楽とをうるために発明されたものである。「能率第一(エフイセンシー・フアースト)」主義の消費生活における適用である。従来の「モダン・ガール」とは、身を持ってそれを宣言するところのマネキン的存在である。

 昭和初期の文章にもかかわらず、ここの「モダニズム」を「ポストモダニズム」に書き換えてしまえば、1980年代以降、現在でも通用しそうな消費社会論の一節のようになっているのが面白いです。このように、男性が女性主体の新しい文化についてあれこれと分析するのは、最近では少なくなったように思いますが、1980年代だったら女子大生、1990年代だったら女子高生がその対象となったようにその後も行われていきます。そこにはある種、「自分の思うカッコいい女性」の姿、理想を投影するような態度が見て取れます。