オウム事件という非日常と
「終わりなき日常」というタイトル
宮台真司は「新人類」以降の社会を分析するために、それまでのカルチャーの徹底した分類、データの収集と、アジテーターとしての役割を使い分けながら人気を博してきました。
『制服少女たちの選択』の翌年、1995年3月以降にはオウム真理教による一連の事件があります。そんな中、1995年7月、事件にすぐに対応するかのようにオウム真理教とそれを取り巻く社会に言及した『終わりなき日常を生きろ』が刊行されています。オウム事件という非日常的な出来事を取り上げた本なのにもかかわらず、「終わりなき日常」というタイトルになっているのはなぜでしょうか。
副題に「オウム完全克服マニュアル」とあるのがポイントです。オウム事件は当然世間に衝撃を与え、メディアも知識人も現状を乱世のように捉えていたわけですが、同時に「ナチュラル=自然体で生きる若者」的な言説も存在していました。自然体とは、日常をなんとなく肯定するようなことです。つまり、なんらかの使命感をもって事件を起こしたであろうオウム信者や、事件について盛り上がる人々に、「日常」を対置するような意図があることがうかがえます。
なぜ宮台真司は「革命」に
「まったり」を組み合わせたのか
宮台はこの頃から「まったり革命」というスローガンを唱えていきます。「まったり」は現在でも普及している言葉ですが、1990年代中頃に全国的な若者言葉として使われるようになりました。先述した「ナチュラルな」生き方を象徴するような言葉でもあります。
『「いまどきの若者」の150年史』(パンス、ちくまプリマー新書)
なぜ「まったり」と反対の意味を持つような「革命」がついているのか。例えば当時、宗教に走ってしまうようなストイックでまじめな若者たちという存在がいました。彼らがドツボにハマってしまうのに対して、援助交際をするような若い女性たちは「まったり」と現代を生き抜いている。女子高生を分析しているけれどもその言説の対象はむしろ、一般的な読者に向いていたと言えるでしょう。このような見立ては当時、衝撃を持って受け入れられていました。革命をしない革命なのだといういわば逆説的な考え方は、例えば年長の読者がイメージする「革命」を覆すのに十分な勢いを持っていたわけです。
ただ、援助交際をする人たちが果たして本当に「まったり」していたのか。いやそうではなかった、リスキーであったという事実がのちになって明らかになったため、宮台真司の反省は始まることになるわけですが(編集部注/宮台真司氏は2025年刊行の『制服少女たちの選択 完全版』で、当時の女子高生像への見立てを反省的に振り返っている)、この変化は現代から見ても明らかです。21世紀以降は、もう「終わりなき日常」なんて言ってられないくらい激しい社会変化があり、そのような主張のインパクトも薄れてしまいました。
とはいえ一発で世界が崩壊するような状況になっているかといえばそんなことはないわけで、いまは実質的な「終わりなき日常」なのに、じわじわと不満や苦しみが蓄積したり発散されたりしている状態なのかもしれません。







