わがままでへそ曲がりな自分からはじまる

 理由は簡単で、「みんな」が野球をしていたからなんですね。友達も、上級生も、みんながみんな野球をしている。そこにあとから自分が入っていっても、うまい人に教えてもらわなきゃいけないし、上級生には勝てっこない。どんなにがんばっても二番手、三番手として教えを請う立場に立たされる。それがわかっていたから、野球を避けていたのです。

 競争するのも嫌だし、みんなと同じことをやらされるのも嫌だった。野球が嫌いだったのではなく、そこで他人と比べられたり、競争を強いられるのが嫌だった。いま思うと、ものすごくわがままで、へそ曲がりな子どもだったんですね。

 一方、秘密基地で遊ぶことについては、上級生も下級生も関係ありません。誰かとなにかを競うでもなく、ルールがあるわけでもなく、自分の好きなようにアイデアを巡らせ、かたちにすることができます。
 大人になってからも同じように生きてきました。

「みんな」がやっているものには手を出さない。
「みんな」がやっていないからこそ、そこに可能性を見出し、チャレンジする。

 わたしがいま、医用ロボットや生体医用マイクロ・ナノマシンといった風変わりな研究に取り組んでいる背景には、間違いなく「みんな」がやっていなかったから、という単純な理由が隠されています。