賛成するより反対するほうが、なぜか賢く見えてしまう――SNSでも会議でも、そんな空気を感じたことはないだろうか。とりあえず何かを否定してみせることが、いまや一種の作法になりつつある。この「否定だけがふくらむ」構造をつかめば、逆張りの応酬に振り回されずに済むはずだ。そしてこの現象を90年近く前に見抜いていたのが、経営学者として知られる前のドラッカーだった。本連載では、膨大なドラッカーの著作を読み返し、その中から令和の現在に役立つ知を取り出して紹介していく。(構成:ダイヤモンド社書籍編集局)

「反対」が仕事になる時代
SNSを開けば、誰かの発言に「それは違う」と噛みつく投稿のほうが、静かに賛同する投稿よりも大きく伸びていく。人々の注目そのものが価値になるアテンション経済のもとでは、否定や逆張りのほうが目を引きやすく、結果として増幅されやすいのかもしれない。
これは画面の中だけの話ではない。会議でも、まず反対してみせる人がなぜか切れ者に見え、素直に賛成する人はどこか凡庸に映る。だが、その反対に「では、どうするのか」と問い返すと、代案が返ってこないことは少なくないだろう。
この「否定だけがふくらんでいく」現象を読み解く補助線が、意外にも90年近く前の一冊にある。ドラッカーが29歳のときに著した処女作『「経済人」の終わり』だ。本書は経営書ではなく、当時ヨーロッパで台頭していた全体主義を正面から解剖した、政治の書である。
否定こそが綱領だった
ドラッカー自身、この時代の当事者だった。台頭する全体主義は、彼のフランクフルトでの職を奪い、ウィーンの実家を壊したのだという。それでいて本書の筆致は、驚くほど冷静だ。憎しみに憎しみで応じるのではなく、なぜこの運動が人々を引きつけるのか、その構造だけを取り出そうとする。
ドラッカーがまず退けるのは、「大衆はプロパガンダに騙されただけだ」という手軽な説明だ。彼が目にした現実はむしろ逆で、支持者自身が公約を信じておらず、矛盾も承知のうえで群がっていた。では、この運動の中身とは何だったのか。彼の答えは、前向きの理想などなく、あるのはひたすらな否定だけ――否定がその綱領である、というものだった。
本書には、こう書かれている。
しかしファシズム全体主義においては、歴史上のいかなる政治運動と比べても、過去の否定がはるかに徹底している。
――『「経済人」の終わり』より
この「否定そのものが目的になる」という徹底ぶりが、令和の逆張りを考えるうえで効いてくる。
両側を同時に叩く構造
否定の何が特異なのか。ドラッカーが挙げるのは、対立するはずの理念を、両方まとめて否定してしまう点だ。片側に立って相手を批判するのではなく、あらゆる立場の外から、すべてに「ノー」を突きつけるのだと述べる。
ファシズム全体主義は反リベラルであると同時に反保守である。反宗教であると同時に反無神論である。反資本主義であると同時に反社会主義である。
――『「経済人」の終わり』より
反リベラルであると同時に反保守、というわけだ。令和の逆張りにも、これとよく似た形が透けて見える。
流行を叩き、その反動も叩き、多数派なら何であれ逆を行く。両側を同時に否定するその身振りそのものが、当人を鋭く見せてくれるのだ。
ただし、これを健全な批判と混同してはならない。まっとうな批判には、必ず「ならばこうすべきだ」という前向きの中身が伴う。中身のある批判と、否定のための否定は、まるで別物だ。そしてもちろん、暴力と虐殺を伴ったあの革命と、現代のSNSを同じ地平に並べるつもりはない。ここで重ねているのは、あくまで「否定だけが自走していく」という構造の相似にすぎない。
否定は信条の代用である
では、なぜ人は前向きの理想ではなく、否定へと走るのか。ドラッカーの答えは、拍子抜けするほど単純だ。信じるに足る前向きなものが手に入らないから、その空白を否定で埋めるのだ、という。
本書には、こうある。
ムッソリーニやヒトラーが何をいおうと、思想の前に行動はありえず、信条の前に革命はありえない。したがって、新しい前向きの信条が手に入らなければ、否定をもって代用としなければならない。
――『「経済人」の終わり』より
ここで、記事全体がくるりと反転する。否定は、強さの表れではない。むしろ、前向きに信じられるものを見失った、空白の裏返しなのだ。
この反転を手にすると、風景が変わって見える。誰かの否定が鋭く刺さるとき、問うべきは「その否定は正しいか」だけではない。否定は信条の空白の代用だとすれば、その裏で何が欠けているのかをこそ、見ればいいのではないだろうか。
否定は簡単で、肯定は難しい。それでも、自分の番が回ってきたとき、否定の一言で賢く見せる誘惑を手放し、たとえ拙くとも前向きな中身を差し出せるか。熱狂のただ中で構造だけを冷静に見つめた若きドラッカーの視線は、令和のわたしたちにも静かにそう問いかけているように思われる。
*本記事は、書籍、『「経済人」の終わり』の一部を抜粋・編集したものです。






