認知症は生活習慣で予防できる――そんな話を聞いたことがある人は多いだろう。しかし一方で、「遺伝」で発症リスクが大きく変わることも明らかになっている。元オックスフォード大の医学研究者であり、「糖と脳」の専門家として知られる医師・下村健寿氏は、アルツハイマー病の発症率を30倍以上も左右する「ある遺伝子」があると言う。(構成/ダイヤモンド社・石井一穂)
Photo: Adobe Stock
認知症の発症率に関係する「ある遺伝子」
晩発型アルツハイマー病の発症リスクを高める遺伝子はいくつか知られていますが、なかでもとくに注目されているのが「APOE(アポイー)」という遺伝子です。
前提としてタンパク質は、アミノ酸という20種類の小さなパーツが特定の順番で並んでできています。遺伝子には、このアミノ酸の並び方(アミノ酸配列)の情報が刻まれています。つまり「設計図」です。APOE遺伝子にも、タンパク質のアミノ酸配列の情報が記されています。
その設計図をもとに私たちの体内で作られるタンパク質が「アポリポタンパク質E」です。
APOE遺伝子に記されているアミノ酸配列には個人差があり、そのわずかな違いによって、完成するアポリポタンパク質Eはいくつかのタイプに分類されます。
「アポリポタンパク質E2」「アポリポタンパク質E3」「アポリポタンパク質E4」の3種類です。
私たちは、父親と母親からそれぞれ遺伝子を1セットずつ受け継ぐため、すべての遺伝子を2本ずつ対で持っています。APOE遺伝子も例外ではなく、各個人が1対、つまり2本のAPOE遺伝子を持っています。
3種類あるAPOE遺伝子を誰もが2つ持っているということは、その遺伝子(設計図)によって私たちの体内で作られるアポリポタンパク質Eの組み合わせは次の6パターンがあります。
② E2/E3
③ E2/E4
④ E3/E3
⑤ E3/E4
⑥ E4/E4
調査によると、6つのパターンは均等に作られるわけではなく、「④ E3/E3」の組み合わせを持つ人が最も多いことがわかっています。
認知症のリスクが「30倍」になる条件
じつは、この組み合わせのパターンによって、アルツハイマー病の発症率が異なります。「④ E3/E3」を基準として、各パターンの発症リスクを比較してみましょう。
「① E2/E2」または「② E2/E3」の組み合わせを持つ人がアルツハイマー病になるリスクは、「④ E3/E3」の人とほぼ同じです。
しかし、E4の遺伝子が入ってくると、状況は劇的に変わります。
「③ E2/E4」の組み合わせを持つ人がアルツハイマー病になるリスクは、「④ E3/E3」に比べて約2.5倍。「⑤ E3/E4」を持つ人は約5.6倍。「⑥ E4/E4」になると、そのリスクはなんと33.1倍に跳ね上がります。
先ほどの一覧に、「④ E3/E3」を基準とした発症リスクの数値を加えてみましょう。
② E2/E3:1
③ E2/E4:2.5
④ E3/E3:1
⑤ E3/E4:5.6
⑥ E4/E4:33.1
アポリポタンパク質E4と、他のE2やE3との違いは、驚くべきことにアミノ酸がたった1個異なるだけです。E2とE3は112番目のアミノ酸がシステインであるのに対し、E4ではアルギニンというアミノ酸に置き換わっています。
このたった1個のアミノ酸の違いが、アルツハイマー病の発症リスクにおいては、30倍以上の大きな差を生み出すのです。
アポリポタンパク質Eは、アルツハイマー病の主な原因と考えられているアミロイドβの排出を促進する、非常に重要な役割を担っています。この重要なタンパク質を構成するアミノ酸がたった1個異なってしまうと、アミロイドβが脳からうまく排出されなくなり、結果として脳内に蓄積してしまうのです。
つまりアルツハイマー病は、私たちの「設計図」である遺伝子によって、その発症リスクが大きく左右される側面を持っているのです。
なぜそんな厄介な遺伝子があるのか?
進化の法則に従えば、生存にとって不利な遺伝子は淘汰され、有利な遺伝子が残っていくはずです。それなら、なぜアルツハイマー病のリスクを高める厄介なAPOE4遺伝子が、現代まで淘汰されることなく残り続けたのでしょうか?
その答えは「本来は生存にとって有利な遺伝子だったから」です。
このAPOE4遺伝子が現代まで存在し続ける理由を探るため、科学者たちはAPOE4遺伝子に生存に有利な何らかの作用がないか、世界中の様々な地域で大規模な調査を行いました。
すると驚くべきことに、ブラジル、ガンビア、ボリビアといった地域において、特定の条件下でAPOE4遺伝子を持っている人だけが、生存競争に打ち勝つ確率が高まっていることが明らかになったのです。
ブラジルでの調査では、腸炎による重度の下痢症を発症した子供たちのうち、APOE4遺伝子を持っている子供たちだけが、より早く快復し、脳などに障害が残る確率が低くなっていました。
アフリカ大陸西部のガンビアでは、マラリアに感染した際にAPOE4遺伝子を持っている人の体内ではマラリア原虫の増殖が抑えられ、重症化しにくいことがわかりました。
また、南米ボリビアのアマゾン川流域に住むチマネ族の研究では、寄生虫感染に伴う脳機能の低下が、APOE4遺伝子を持っている人では起こりにくいことが判明しています。
これらの調査結果から、どうやらAPOE4遺伝子を持っている人は感染症に対する抵抗力が高いという共通の特徴があることがわかってきました。
新型コロナウイルスのパンデミックを経験した現代の私たちなら、この事実の重みを理解できるでしょう。人類の歴史を振り返れば、それはまさに感染症との絶え間ない闘いでした。人類の進化において、感染症に対する抵抗力が強いということは生き残る上で極めて有利な特性です。
感染症との闘いに打ち勝つために、APOE4遺伝子は淘汰されることなく、今日まで私たちの中に受け継がれてきたのです。
福島県立医科大学卒。同大副理事、医学部病態制御薬理医学講座主任教授。現役内科医でもある基礎医学研究者。日本糖尿病学会東北支部学術評議員。日本内科学会認定内科医。医学博士。群馬県前橋市出身。2004年、日本で働いていた大学医学部から、英国オックスフォード大学への就職を試み、執念の就職活動を実らせて成功。オックスフォード大学正式研究員として、世界を代表する生理学者フランセス・アッシュクロフト教授の薫陶を8年間受けた。その間、新生児糖尿病治療法の発見という世界的快挙に貢献。新生児糖尿病の最重症型であるDEND症候群の脳神経症状治療有効例を報告した論文は米国神経学会誌「Neurology」よりEditorial論文に選出された。貢献を認められて2006年と2010年にオックスフォード大学メリット賞を2度受賞。日本帰国後は、新生児糖尿病に加えて肥満・2型糖尿病などの生活習慣病について、インスリン分泌や脳機能の観点から研究している。








