書店を歩けば必ず見かける――。数々の話題書で装画や本文イラストを手がけるイラストレーター・ヤギワタル氏をご存じだろうか。親しみのある絵柄で人気を博す彼は、どのようなキャリアで「食えるイラストレーター」になったのか。初の著書『言語化だけじゃ伝わんない――絵を描くように「考える・伝える」技術』も書き下ろし、ますます注目度の高まるヤギ氏。その全てを語るインタビュー記事。全5回のうち第3回目をお送りする。(取材・構成/ダイヤモンド社・種岡 健)

【食えるイラストレーターになる方法】デビューするために最初の最初にやったこと

「肩書きが3つある名刺」と、写真という迷い道

――前回は、第二新卒で入った制作会社を10ヶ月で辞め、翻訳会社で必死にサバイバルしながら、フランス旅行などを経て「心とお金の余白」を作っていった話までを伺いました。その頃のヤギさんは、イラストだけを描いていたわけではなかったんですよね?

ヤギワタル(以下、ヤギ):そうなんです。当時は本当にブレブレで、生きる方向性が定まっていませんでした。
 20代後半の頃、ぼくの名刺には「ライター、イラストレーター、カメラマン」という3つの肩書きが並んでいたんです。何かしら作りたいとは思っていても、どれも突き詰められなくて、手当たり次第に「自分ができるかもしれないこと」を詰め込んだ、自意識過剰でイタい名刺でしたね。

――なぜ、そこに「写真(カメラマン)」が入ってきたのでしょうか?

ヤギ:きっかけは、前回(第1回)でお話ししたワタナベアニさんが写真を始めたことでした。本当に楽しそうに写真の話をしているので、「写真っていいな、かっこいいな」と単純に影響されたんです。それでぼくも自分自身のカメラを買い、写真を撮り始めました。
 2010年に、渋谷にある「SPBS(Shibuya Publishing & Booksellers)」という本屋で、写真家の若木信吾さんが講師を務めるワークショップが開催されることを知って、そこに参加したんです。

――若木信吾さんのワークショップではどのようなことを学ばれたのですか?

ヤギ:そこで教わった「ページ」という概念が、ぼくにとってはものすごく大きな衝撃でした。ポートフォリオを作るにしても、ただ写真をバラバラと並べるんじゃなくて、「本をめくっていくページ単位での流れ」を意識しなさいと。雑誌を作るような感覚で写真の構成を考えなさい、と指導されたんです。

 この「ページ単位で視線を誘導し、構成を作る」という考え方は、後に一冊の本文イラストを担当することになったとき、ものすごく生きてきました。本の表紙(カバー)だけじゃなく、中の何十ページ、何百ページという紙面の中で、どうやって小さなイラストを機能させるか。その幅の意識は、間違いなくこの写真のワークショップで培われたものです。

――なるほど。写真の理論が、巡り巡って本のイラストのレイアウトに繋がっていったのですね。

ヤギ:そうですね。当時は「何か自分の表現の手がかりを掴みたい」と必死で、実はそのワークショップで自分の写真を見た人たちから、「写真、うまくなってるね」と少しずつ褒めてもらえるようになっていったんです。
 そこから話が進んで、SPBSで次に行われるワークショップの様子を記録するカメラマンとして声をかけてもらいました。それがぼくにとって生まれて初めての写真の仕事だったんです。

カメラマンに求められた「モテる素質」

――写真の仕事が舞い込むようになって、手応えを感じていたのではないですか?

ヤギ:周りからは「お、こいつはこれからカメラマンとしてやっていくんだな」と思われていたし、じゃあ仕事を振ってやろうかという感じだったと思います。でも、実際に「プロ」として写真を撮る現場に立ってみた瞬間、恐ろしいほどのプレッシャーに襲われました。
 何より、写真というメディアの特性が、ぼくの根本的な性格と致命的に合っていなかったんです。

――合っていない、とは具体的にどういうことでしょう。

ヤギ:写真は、その「現場」で完璧にシャッターを切らないと、後からの取り返しが絶対につかない仕事です。「あ、すいません、さっきのシーンもう一回撮らせてください」は通用しない。この一発勝負のプレッシャーが、心配性でテンパりやすいぼくにはとにかく耐えられなかった。
 自分で好き勝手に写真を撮っていたときにはそのことに気づいていなかったんですけど、ある現場で撮影した写真を編集者の方に送ったとき、指摘されたんです。「ヤギさん、この写真、なんで撮るときに後ろの椅子をどかさなかったの?」って。

――背景の映り込みですね。

ヤギ:それを言われた瞬間、ゾッとしてしまって、「あ、ぼくにはこの仕事は絶対に無理だ」と悟ってしまいました。
 撮影中って、めちゃくちゃテンパっているんですよ。カメラの画角を決めて、モデルさんのポーズを気にして、光の具合を調整して……と、頭の中は常にマルチタスクでパンパンになっている。その上で、さらに背景のノイズ(後ろの椅子など)にまで注意を払うなんて、ぼくの処理能力ではどうしても追いつかなかったんです。

――そこに気が回らなかったのですね。

ヤギ:そうなんです。「気が回らない」。これはカメラマンにとって致命的な欠陥です。ぼくは昔からよく「カメラマンがモテる」と言われる理由を、身をもって理解しました。カメラマンとして超一流の人って、とにかく視野が広くて、現場でめちゃくちゃ気が利く「モテる人」の素質を持っているんですよ。

 たとえば、目の前の被写体だけじゃなく、スタジオ全体の雰囲気や、スタッフの動き、写り込むすべての要素に同時に目を配れる。まるでお笑い界でいう「優秀なMC」のような視野の広さです。ぼくはどれだけ努力してもそこには到達できないなと思います。

 編集の方から指摘を受けた仕事というのは、ある企業の社内風景を紹介するという企画内容でした。広報の女性がすぐ隣について回っていたのですが、それまで風景だけを撮っていたのに、突然、その広報の方を写真に撮ることになりました。そのとき、画角はどうするか、絞りをどうするかを気にかけているうちに、画面の後ろの余計なモノには気づかなかったんですよね。それをあとで指摘されたときに、全く見えていなかったことに気づいたんです。

 そこからがんばって「モテるカメラマン」のように気を配れるようになる道に進む人もいると思いますが、ぼくは「これは無理だ」と思って諦めてしまいましたね。

「1つに絞ったら?」という決定的な一言

――期待されていたカメラの仕事を諦めるのは、かなりの勇気が必要だったのでは?

ヤギ:ものすごく悩みました。写真のノウハウを教えてくれたワタナベアニさんに対しても申し訳ないし、最初に仕事を振って期待してくれたSPBSの人たちの顔も浮かんで、強烈な罪悪感がありました。
 でも、そのタイミングで、ぼくの人生の最大の恩人の一人であるデザイナーの斉藤いづみさん(現在もヤギさんの公式サイトのデザインを手がけている)と出会ったんです。

――斉藤いづみさんは、ヤギさんのポートフォリオを見て何とおっしゃったのですか?

ヤギ:最初はぼくの「ライター、イラスト、写真」と書かれた名刺を見て「なんだこいつ」みたいに面白がってくれたんです。最初は写真のポートフォリオを見てもらったんですが、そのあとイラストのポートフォリオも見てもらいました。後日、ぼくがブログで書いていた文章も読んでくれて。

 そうやって全部を見てくれたあとで「肩書き、とりあえず1個に絞ったら?」と言われたんです。そして、「写真も文章もいいけど、一番仕事につながるのはイラストだと思うよ」と。

――決定的な一言ですね。

ヤギ:その言葉が、ぼくの背中を強く押してくれました。自分でもうっすらと「このままじゃどれも中途半端に終わる、やることを1個に絞らなければいけない」と感じていたタイミングだったからこそ、プロのデザイナーからの「イラストでいける」という言葉が、すとんと胸に響いたんです。

 そこから、ぼくはカメラを置いて、イラストレーターとして生きる決意を固めました。30歳を目前にして、人生の引き算をする決断でした。それまでは肩書きを増やして自分を足し算で大きく見せようとしていたけど、本当に自分自身の人生を歩み始めるためには、向いていないものを削ぎ落とす、引き算の作業が必要だったんです。

飯田橋への全力疾走

――イラストレーター一本に絞ると決めたヤギさん。とはいえ、当時はまだイラストの仕事はほとんどない状態でしたよね。そこからどうやって、プロとしての突破口を開いていったのですか?

ヤギ:まさにその決断をした直後、2010年の終わりから2011年の初めにかけて、運命的な出来事が重なりました。
 翻訳会社での仕事帰りに、NHKの局舎内にある本屋に立ち寄ったとき、何気なく『イラストレーション』という業界誌を手に取ったんです。カフェに立ち寄ってそれを読んでいたら、「鈴木成一装丁イラスト塾」の募集広告が目に入りました。

――本の装丁の超第一人者である、鈴木成一さんのイラスト塾ですね。

ヤギ:そうです。その広告をよく見ると「応募締め切り」がすでに過ぎていたんですよ。それまでのぼくなら「あ、締め切り過ぎてる。残念だけど諦めよう」と、そこで終わっていたはずです。でも、そのときのぼくは、翻訳会社の仕事のおかげで初めて「まとまった貯金」ができていて、お金と精神に少し余裕がありました。
 さらに、当時流行っていたビジネス書をたくさん読んでいて、「とにかく行動することが一番大事だ」という考えに影響を受けていたんです。
「ダメ元でもいい。チャンスがあるなら動かなきゃダメだ」。そう思い立って、NHKの近くにあったカフェで、すぐにその塾の事務局へ電話をかけました。

――締め切りが過ぎているのに、直訴の電話を。

ヤギ:そうです。「募集締め切りが過ぎているのは百も承知なのですが、今から応募しても受け付けてもらえるでしょうか」と。そうしたら、電話口の担当者の方が少し黙って、こう言ってくれたんです。「応募には課題となるイラストが20枚必要なのですが……。もし、今日中に飯田橋にある事務局まで絵を直接届けてくれるのなら、特別に受理します」と。

――「今日中」ですか。それはまた、凄まじい展開ですね。

ヤギ:それで、普通なら「20枚の絵を今から描くなんて物理的に不可能だ」と絶望するところですよね。ところが偶然、そのときぼくは表参道にある「HBギャラリー」というイラストレーション専門のギャラリーが開催しているコンペに応募するために、20枚の原画を提出していたんです。そして、ちょうどその頃、コンペが終わって絵を回収しにいく期間だった。

――絵が、今まさに表参道のギャラリーに、20枚揃っていた!

ヤギ:そうなんです! 渋谷のカフェにぼくがいて、表参道のギャラリーにぼくのイラストが20枚あって、飯田橋にその絵を待っている事務局がある。
「すぐに行きます!」と電話を切って、カフェを飛び出しました。表参道のギャラリーで20枚の絵を回収し、それを抱えて、飯田橋の事務局へダッシュして、絵を届けきったんです。

 後から事務局の方に「他の人には内緒にしてくださいね」と釘を刺されましたけど。あのとき、もし電話をかけていなかったら、もし20枚の絵が揃っていなかったら、今のぼくのイラストレーターとしてのキャリアは存在していないかもしれません。何かに導かれるような、本当に怒涛の1日でした。

「描き文字」が生んだ奇跡的なデビュー

――そうして奇跡的に間に合った鈴木成一さんのイラスト塾(第1期)での生活はいかがでしたか?

ヤギ:生徒はぼくを含めて、9人程度でした。神保町の小さくて静かな会議室に集まり、みんなが課題として描いてきた絵を並べて、鈴木成一さんがそれについて講評を述べるんです。

 塾生には、今では書籍関連で活躍しているような、実力派のイラストレーターが揃っていました。そんな中で、ぼくのような実績もない人が、なぜ最初の仕事を掴むことができたのか。ここにもまた、面白い「偶然」が重なります。

 イラスト塾を主催していた「日本ユニ・エージェンシー」の方が、ぼくが提出した課題のファイルや、イラストに添えられていた「手描きの文字」を見てくれていたんです。そしてその方が当時、海外の絵本『ダース・ヴェイダーとルーク(4才)』の翻訳版を出版するにあたって、カバーや作中に出てくる吹き出しセリフの文字をすべて、機械のフォントではなく「手描き文字」で描ける人を探していたそうなんです。

 その担当者の方から、こう聞かれました。
「ヤギくん、文字って描ける?」
 最初は何を言われているのかよくわからなくて、「え、まあ、日本語の文字くらいなら普通に書けますけど……」みたいな、とぼけた返事をしてしまいました。

 でも、その担当者さんは、ぼくの手描き文字が持つ独特の味をすごく気に入ってくれていたようで。それがきっかけで、ぼくは『ダース・ベーダーとルーク(4才)』のカバータイトルや、本の中の吹き出しセリフの手描き文字をすべて担当させてもらうことになったんです。

――それが、ヤギさんにとっての最初のデビュー作になったのですね。

ヤギ:そうです。しかもその本は、口コミやSNSで話題になり、10万部を超える大ベストセラーになったんです。
「イラストレーター」として絵を描くために滑り込んだ塾で、なぜか「文字を描く」という仕事を与えられ、それが自分の人生を大きく変えるヒット作になる。人生って、本当にどこで何が繋がって、どう転んでいくかわからないな、とつくづく思いますね。(第4回へ続く)

ヤギワタル
1981年静岡県生まれ。制作会社にて、雑誌タイアップ広告の制作進行を務めたのち、フリーランスのライターを経験。国際情勢関連の英日翻訳をやりながら、2011年からイラストレーターの活動をスタート。現在は書籍・雑誌・広告など幅広く活動中。特に、ビジネス書や新書での挿絵や図解を担当することが多く、10年以上、活躍している。
これまで、装画・イラストを担当した書籍は200冊以上。『言語化だけじゃ伝わんない –––– 絵を描くように「考える・伝える」技術』(ダイヤモンド社)が初の単著となる。