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死に方について多くの人は「自分がどう逝きたいか」を基準にする。しかし、家族や身近な人からすれば、同じ最期でも違って見えることがある。「看取られる側」と「看取る側」には、どのような視点の差があるのか。※本稿は、老年心理学者の佐藤眞一『お医者さんはなぜ「がんで死にたい」と言うのか?超長寿時代の老いと死を考える』(光文社)の一部を抜粋・編集したものです。
死への準備がないほど
残された人の悲嘆は長引く
あなたは、看取る側と看取られる側の、最大の違いは何だと思いますか?それは、看取る側は看取られる側が死んだ後も生き続ける、ということです。私たちは、死んだ人の人生がこれから先も続いていたらどうなっていたかに、思いを馳せます。そして「これから先」を思っても虚しいことに改めて気づき、悲しみを感じます。
私たち一人ひとりの人生の物語には、数多くの人々が登場します。その中でも物語の展開に重要な役割を担った、関わりの深い人が亡くなった場合、私たちは自分の人生の物語を書き直す必要に迫られます。親しい人の死に際して悲嘆が起こるのは、物語を書き直さなければならないことへの、無自覚な反応の一つでもあるのです。
看取られる側は、死に瀕していることの苦しみに加えて、親しい人たちの生活にネガティブな影響を及ぼしてしまうことへの苦しみも感じます。しかしその苦しみは、死ぬまでのことです。それに対して看取った側の悲嘆は、非常に長く続く場合があります。私も弟の死への悲嘆が、長く続いています。
私は両親と弟を亡くしましたが、弟の死は両親よりも先で、脳出血による突然死でした。







