しかし彼らからすれば、「既得権益」の上にあぐらをかいている「既成権力」としての高齢者は、むしろ強者であり、それを支えるために税制や社会保障制度を通じて搾取されている自分たちこそが、実際には弱者だということになる。

 第二に従来は、競争政策を支持するのは強者であり、弱者は保護政策を支持するはずだと考えられていた。しかし彼らからすれば、「オールド連合」(編集部注/高齢者やオールドメディア、地方議会や公務員などひとからげにオールド視され、既得権益の上にあぐらをかいているように見える既成権力側のものを、筆者はこのように表現している)による保護政策は彼らを保護してくれるものではなく、逆に搾取するものであり、だとすれば誰も保護されることのない自己責任の競争社会のほうが、むしろ安楽だということになる。

自分ではない誰かを守るための
課税には「NO」と言いたい

 こうしたことから彼らは、自らを弱者として認識するとともに、しかしそうした認識にもかかわらず、保護政策を拒否し、競争政策を支持することになる。そこに現れてくるのは、従来的な「弱者のためのリベラリズム」でもなければ「強者のためのネオリベラリズム」でもなく、「弱者のためのネオリベラリズム」だと言えるだろう。

 それはいわば、ジリ貧になっていく社会を彼らが生き延びていくための世界観だ。イノベーションが進まず、生産性が上がらず、それゆえに賃金もなかなか上向かず、一方で税と社会保険料の負担がじわじわと増していくなかを生き延びていくためには、何よりもまず減税が望ましい。また、社会保障も自分たちを保護してくれるものではないのだから、給付全体の削減が望ましく、投資や副業で少しでも収入を増やしていくしかないのだから、金融所得課税の強化などもってのほか、ということになる。

 彼らが置かれているこうした苦境の中から生まれてきたのが、「弱者のためのネオリベラリズム」だと言えるだろう。

 こうした彼らの考え方、「弱者のためのネオリベラリズム」は、では本当に弱者のためになるのだろうか。あるいはそこから何らかの建設的な議論が生まれるのだろうか。

老人優遇を隠れ蓑にして
富裕層は大きく肥えた

 格差の大きさを示す指標であるジニ係数(編集部注/所得や資産の分配の格差を測る統計指標)には、税制や社会保障制度による所得再分配の前のものと後のものとがあるが、日本ではとくに1990年代以降、再分配前の値は大きく上昇しているものの、再分配後の値は微増するに留まっている。