儀礼的だった戦争を
呉が「本気の戦争」に変えた

 それまで、春秋時代の中原(中国中心部)の諸侯の戦いは「士」以上の身分の者しか参加できず、戦場の主役は馬で引く戦車だった。また、互いに勝負の日を事前に定めたり、代表者の決闘のみで勝敗を決めたりすることもあったほか、戦場で敵の準備不足や戦意の喪失を認めればあえて戦わない(敵軍が渡河を終えるまで攻撃を控えた「宋襄の仁」の故事は有名だ)など、戦争には儀礼的な要素が強かったとされる。戦闘の期間は短く、長距離の遠征も控えられがちだった。

 だが、江南の異民族の国とされる呉はこうした牧歌的な戦い方をしなかった。そして、本来は非戦士階級である庶民を歩兵として大量に動員し、軍事的な成功を収めた。当時の他の諸侯は、たとえ戦争に勝っても相手の国を滅ぼさない傾向が強かったが、呉は敵国を撃滅するまで戦いを継続することがあった。

 こうした本気の戦争に勝つための理論として求められたのが、戦いの現場から呪術や儀礼といった非合理的な要素を取り去り、自軍を確実に勝利させる「孫子の兵法」だった。

 呉がおこなった非妥協的な戦争は、やがて戦国時代に入ると各国で採用された。その結果として、秦の始皇帝の全国統一(前221年)が達成されることとなる。

 当時、孫武のように軍略を説いた思想家は「兵家」と呼ばれた。のちに戦国時代の魏や楚で活躍した呉起や、孫武の子孫で斉に仕えた孫臏なども兵家に含まれる。

 ちなみに、かつては孫武の実在に疑問が持たれ、『孫子』の作者は孫臏であるとする見解も根強かった。だが、1972年に山東省で史料となる竹簡(文字を記した竹片)が出土し、孫武の実在が有力視されるようになった。なお、孫臏も別個に兵学の書を著しており、こちらは『孫臏兵法』(斉孫子)などと呼ばれている。

『孫子』は百戦百勝を
最善としなかった

兵者国之大事也。(戦争は国家の大事業である)

兵者詭道也。(戦争は敵をあざむく行為である)

 それまでの戦争のあり方を否定した『孫子』の独創性は、冒頭の部分を読むだけでも伝わる。戦争は国の存亡を懸けた事業だけに、謀をこらしてでも勝たなくてはならないのだ。