敵国民の認知領域のコントロールを狙う情報工作は、中国では「認知作戦」(認知戦)と呼ぶ。近年は特に台湾を対象に、各種のSNSを利用したネット世論工作が盛んだ。
2023年以降、台湾側で認知戦研究をおこなう複数のシンクタンクに私が取材したところでは、たとえばコロナ禍の際にはウイルスのアメリカ起源説や台湾の国産ワクチン「高端疫苗」への疑念を煽る情報、さらには台湾有事にあたって米軍は助けに来ないとする言説や、世界最大の半導体ファウンドリである台湾企業・TSMC(台積電)を中国に渡さないために米軍が同社を破壊するといったデマが、中国から盛んに流されているという。
中国による認知戦の発想のバックボーンは、江沢民政権下の2003年に提唱された「三戦」という作戦概念だ。具体的には以下の3点に基づいている。
・輿論戦:メディアなどを通じて有利な世論環境をつくる工作。
・心理戦:敵を精神的に瓦解させたり、同盟国との離間を狙ったりする工作。
・法律戦:法律(国際法や相手国の法律も含む)を利用し、自国に有利な環境をつくる工作。
三戦はこれらの非軍事的な手段を戦略レベルで運用し、「戦わずして勝つ」ことを狙う作戦である。輿論戦と心理戦の延長にあるのが、いま台湾に矛先が向いている認知戦だと考えていい。
台湾上陸は『孫子』的には
下策だが楽観視はできない
人民解放軍が、『孫子』を下敷きにこれらの作戦を立てているのは明らかだ。
たとえば『孫子』「謀攻篇」には、以下のような記述がある。
上兵伐謀、其次伐交、其次伐兵、其下攻城。(最善の策は敵の軍事計画自体を撤回させること、次善の策は敵の同盟外交を破壊すること、その次の策が現実の軍事行動、下策が城攻めである)
ちなみに、台湾で中華民国国防部(防衛省に相当)の広報担当者や国防白書を執筆した軍事学者に話を聞く限り、彼らは人民解放軍がいきなり大規模な上陸侵攻作戦をおこなってくるリスクはあまり心配していない。初手から台湾島の「城攻め」を選ぶような用兵は、孫子の兵法に照らせば明らかな下策であり、常識的にみて他の戦略が優先されると判断できるためだ。
中国の「謀を伐つ」「交を伐つ」認知戦を通じて、民主主義国家である台湾の世論が不安のあまり自国不信・対米不信に陥り、中国による併呑をやむなしとする認識が広がってしまう事態のほうを、台湾当局ははるかに懸念しているようである。
『中国ぎらいのための中国史』(安田峰俊、PHP出版)
ただし、楽観視ばかりもできない。
中国の軍事戦略の根底に孫子の兵法があるとしても、為政者や将軍たちが必ずクレバーな意思決定をおこなえるとは限らないからだ。事実、過去の大日本帝国の軍人にも『孫子』の愛読者は多かったが、現実の彼らは兵法の禁じ手である情報の軽視や長期出兵を繰り返し、自国を敗北させている。
近年の中国でも、外交官が西側に対して強硬な言説ばかりを述べる戦狼外交や、政府系メディアがアメリカは恐るに足らずとする主張を繰り返す現象がある。これは「彼を知り己を知れば百戦殆からず」の思想とは真逆のものだ。『孫子』と身近に接していても、冷静にものを考えて実践できる人は限られている、ということかもしれない。
もっとも、多くの凡人の発想がそうだからこそ、孫子の兵法は21世紀の現代でも通用するともいえるのだ。







