自動作成されることで言葉のオーラが失われるだけではない。言葉を機械に委ねる人間もオーラを失っていく。テクノロジーのなかで生きる僕たちは唯一性を失うのだ。

 テクノロジーのもとで人の個別性が喪失したことが、全体主義における国民の均質化へとつながるとベンヤミン自身は感じていたのかもしれない。均質化を要請するナショナリズムは、背景に技術的な均質化という裏打ちをもっていた。事実、ナチスは当時の最新のメディアである映画を効果的に国威高揚に用いた。

個別性を失った先で
人は孤立していく

 効率に閉じ込められるとき、僕たちは管理される。役に立つように効率的に働くために数字にしばられるとき、誰が命令しているのか判然としない力に行動と言葉をしばられる。

 競争することと効率を求めることは子どもの頃から刷り込まれている。大人になったらますます当たり前のことになるため、誰が僕たちを競争と効率化へと駆り立てているのかはわからない。他の選択肢があるとは思い浮かびもしない。

 言葉と自己を喪失するとき、言葉が氾濫し、やりとりが行き交っているのにもかかわらず、僕たちは孤立する。SNSでたくさん発信して、自分の写真をアップしてどれだけ「いいね」やコメントがついたとしても、それは孤立を癒やすことにならない。

『生き延びるための会話 他者と生きることの哲学』書影生き延びるための会話 他者と生きることの哲学』(村上靖彦、SBクリエイティブ)

 たとえば、ある虐待死の事件で、母親がインスタグラムにキラキラの日常を載せつづけていたことがあった。幸せな日常を演出して「いいね」をもらうことで承認欲求を満たしていたとしても、子どもを死に至らせるほどに、母親は孤立へと追い込まれていたのだ。SNSで失われた会話を補おうとしたのだろうが、孤立が埋まることはなかったのだろう。

 僕自身はこれまで、貧困の厳しい地区で子育て支援の調査をしてきた。そのため、大変な状況のなかで奮闘する人たちについて見聞きすることも多かった。極度の貧困や生育歴のなかでの傷があったとしても、母親が周囲の応援を手にできる環境があれば、誰かとの関係のなかで自分を肯定することができる。

 SNSの「いいね」とは異なる仕方で、自分を支えることはできるのではないか。つまり、親子が周りの人たちとの会話の拡がりがある場所に暮らしていたら、子どもも死へ追いやられることはなかったのではないか。