ソファにもたれかかる女性写真はイメージです Photo:PIXTA

「働きたくない」と思っても、怠け者だと思われそうでなかなか口には出しづらい。なぜ私たちは、働かないことに後ろめたさを感じるのだろうか。「24時間戦えますか」から「働いて働いて働いて」まで、日本社会に根強く残る労働観を、哲学者の小島和男氏が問い直す。※本稿は、哲学者の小島和男『生まれたくなんかなかったのに』(幻冬舎)の一部を抜粋・編集したものです。

今日もやっぱり
働きたくないです

 働きたくない。これを怠け心の表明と受け取ってほしくない。体温の報告のようなものだ。

「今日の体温は平熱、36度6分です」「今日も働きたくないです」。通常運転で、働きたくはないのだ。寝たい、ゴロゴロしたい、遊びたい。そうでなくて、もうちょっと意識が高いときだって働くより勉強したい、本を読みたい、散歩したい。

「働きたくない」というのは毎朝毎日、身体の奥からこみ上げてくる怒りのような叫びだ。これは私だけの感覚ではないはずだ。日曜日の夜、翌日の仕事を思って憂鬱になる人は少なくないだろう。ちょっと古いが「サザエさん症候群」という言葉もあった。

 しかし、暮らすにはお金がいる。お金がないと暮らせない。お金がない理由を「働いていないから」で片づけられるほどこの世界は単純ではないこと、そのことを皆さんはもう分かっているだろう。働かなくたって生きていける人はごまんといらっしゃる。生まれ落ちた場所ですでに人はふるいにかけられているのだ。生まれ落ちた環境の差だ。

 生まれつき身体が弱くて体調が悪かったり、親に理解がなかったり、生まれた家が貧しいなどの事情も努力でどうにかなると言っていい人がいるとしたら、それよりもっと過酷な事情を努力で乗り越えた人だけだ。そんな人が成功している人の中に何人いるだろうか。

 私の見るところ、成功者の多くは、自分の成功を運のおかげだとは思っていない。努力のおかげだと思っている。そして、成功していない人を「努力が足りない」と見下す。この認知の歪みが、制度を変える動きを阻んでいる。

 そもそも私は、反出生主義者として、「生まれないほうが苦は少ない、というか無い」と思っている。苦はないほうが良い。けれど、残念ながら生まれてしまった。すでに生まれてしまっている私たちが息をする場では、もう資源の分配の問題から逃げるわけにはいかないのだ。

 そんな中で、「頑張って働いている人は偉い」とか「働かざるもの食うべからず」とか、働くことを「徳」みたいに無根拠に掲げるのは危ういと思う。徳の衣をかぶせると、働けない人が「徳のない者」に見えてしまう。資源の分配の問題が、その人の問題にされてしまうのだ。

 だから、そんなことは言ってはいけない。私が働くのはそれが良いことだからではない。制度がそう設計され、生活がそうさせるからだ。運が悪かったからだ。「働くことが好きだ」と言い切る人に、特別の誠実さや良さは感じない。