片栗粉を敷き詰めた真っ白な空間で、元気に飛び込んでいく大人たちを横目に、シートの端っこでじっと動かずにいる子どもがいました。「せっかく用意したのに…」「早く遊ばせなきゃ」と大人が焦ってしまうようなその時間こそ、実は子どもが感性を働かせている瞬間かもしれません。本記事では、ベストセラー『13歳からのアート思考』著者・末永幸歩氏の6年ぶりの新刊『「いまを生きる力」を取り戻す 感性の教室』から内容を一部抜粋して、「思いっきり遊ぶ」が正解なのかについて考えます。
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「思いっきり遊ぶ」が正解なのか?
セミの声が鳴り響く葉月の朝早く、大きなビニールシートに、山ほどの「片栗粉」を敷き詰めました。
夏の空気のなかに、雪景色のような空間が広がります─。
幼児を対象にしたアート・イベントを開催したときの出来事です。
片栗粉に手を突っ込むと、なんともいえない滑らかさと、ひんやりとした冷たさが感じられます。また、水を少しずつ注ぐと、手のひらの上でキュッと固まったり、どろりと流れ落ちたりする、不思議な感触を楽しむこともできます。
参加する子どもたちには、砂場で感じるのとはまた違った感覚を、手や足など「全身の感覚」を使って、思いきり味わってほしいと考えていました。
『「いまを生きる力」を取り戻す 感性の教室』p.89より
期待どおり、子どもたちは目新しい場に興味津々で、すぐに遊びはじめました。
また子どもに勝るとも劣らないのが、一緒に来た大人たちです。
「親子で参加可能」「着替え持参」と事前に案内しておいたこともあってか「今日は遊ぶぞ!」と意気込んでいます。素足で粉のなかに飛び込んだり、粉を顔や頭につけたりして大胆に遊びはじめました(なにを隠そう、私もそんな大人の1人でした)。
柔らかい粉の上に寝転がったり、大きな山をつくったり、水を流してみたり……遊びは徐々に盛大になっていきました。
一方で、いつまで経ってもなかなか踏み出せずにいる子どもがいました。
少し離れた場所からただ見ていたり、シートの端っこでほんの少し粉に触れるだけだったりします。
こちらとしては、せっかく用意した大がかりな場です。つい「楽しんでもらわないともったいない」という感情が出て、「さあ、早くこっちで一緒に遊ぼう!」という言葉が喉まで出かかりました。
しかしそのとき、本書のクラス1で考察してきたことが私の頭をよぎりました。
そこで、しばらくのあいだじっとその子の様子を観察していると、最初は「消極的だ」と思っていた姿が、まったく違ったふうに感じられてきました。
初めて目にする、真っ白な空間。
そこに漂う、異様な気配。
それを全身で受け止める。
シートの端っこにそっと座る。
恐る恐る、ゆっくりと指先でそれに触れてみる。
自分の胸がざわざわと揺れ動くのを感じる。
それは、「いま目の前にあるもの」や「その瞬間に起こっていること」そして「その時々の自分の心の揺らぎ」に真正面から向き合い、そこからさまざまな感覚を受け止めている、とても大切な時間であるように見えたのです。
私が思い描いていた「笑顔で粉のなかに飛び込んでいく姿」とはまるで違いますが、この子どももまた第六感を含むような「全身の感覚」を駆使して、真っ白な片栗粉のある空間を存分に味わっていたのです。
むしろ、なんの迷いもなく粉の山に飛び込んでいった大人たち(私を含め)のほうが「思いっきり遊ぶ」というかたちに囚われていたようにも思えてきました。
そのせいで、目の前にあるものごとを本当の意味で受け止め、自分なりに感じることが疎かになっていたように思います。
呆然として動き出せずにいる時間もまた、笑顔で活発に活動しているときと同じぐらい、その子どもにとって充実した時間なのです。
逆に考えれば、「子どもが戸惑うことがないように……」「スムーズに活動しはじめられるように……」と、大人が手取り足取りガイドしたり促したりすることは、いつも必要だとはかぎりません。
それによって、子ども自身が「新鮮な視線」で対象に向き合う貴重な時間が失われてしまう場合もあるからです。
少なくともそのときの私には、なかなか踏み出さない子どもの姿を、ただそっと見守っていようと思えました。






