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高度経済成長からバブル経済へ――1970年代、日本車は高品質で安価と評価され、海外輸出で急成長を遂げた。その成長を支えたのが、自動車メーカーを頂点とする「ケイレツ(系列)」と呼ばれるピラミッド型の企業間関係だ。しかし、その強固なシステムと成功体験こそが、のちに大きな足かせとなっていく。1980年代に入ると、貿易摩擦や円高を背景に、自動車業界は「国内生産・輸出」から「海外現地生産・販売」へと大きな転換を迫られた。日産は他社に先駆けて、海外現地生産へシフトしながらも、それを支える運営の仕組みや経験のアップデートができていなかった。その結果、トヨタの後塵を拝することに……。本稿では、日産の元社長・西川廣人氏が、日本型製造業の成長モデルが抱える構造的な限界、現場体験とケイレツのリアルを振り返る。※本稿は、西川廣人『わたしと日産 巨大自動車産業の光と影』(講談社)の一部を抜粋・編集したものです。
入社した1977年という年
→『被害総額350億円以上…日産の元社長が明かす「ゴーン事件の全貌」、名経営者の知られざる“もう1つの顔”』を読む
私が日産に入社したのは高度成長期とバブル期のはざまに当たる1977年。あの時代をリアルタイムで生きた世代にとっては自明の話かもしれないが、すでに半世紀近く前のことであり、新世代の読者のためにも簡単に流れを整理しておきたい。
日本の戦後復興期(1950~54年)から高度経済成長期(1955~73年)にかけての流れを支えたのは、製造業に対する集中投資、規模と競争力の確保、それらを可能にする長期的かつ大規模な産業融資、安定した長期資金供給などで構成された仕組み、いわゆる戦後復興のプラットフォームであった。
これが功を奏して国内市場の拡大をベースに高度成長期が到来し、自動車業界も、国内のモータリゼーション(車社会化)の高揚、技術蓄積の時代を迎えたわけである。
自動車業界では、二度にわたるオイルショック(1973年10月~74年8月、78年2月~82年4月)、米国におけるマスキー法(自動車などによる大気汚染の抑制を目的とした1970年の大気清浄法改正法)の施行といった状況の下、小型で燃費の良い車への関心が高まり、日本車の評価が急上昇する。
米ビッグスリー(三大自動車メーカー。ゼネラル・モーターズ〈GM〉、フォード、クライスラー)の弱体化も相まって、日本の自動車業界は1970年代に北米輸出を増大させて急成長を遂げるのである。
自動車業界だけでなく、日本の製造業全般が輸出を基軸として急激に成長し、高品質で安価な「メイド・イン・ジャパン」への評価が定着した。







